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【義塾を訪れた外国人】
サルトル、ボーヴォワール:義塾を訪れた外国人

2016/01/01

三田に到着し、車を降りるサルトルとボーヴォワール。「ベトナム戦争反対」のプラカードを持つ塾生が見える。
  • 朝吹 亮二(あさぶき りょうじ)

    慶應義塾大学法学部教授

ちょうど半世紀前、1966年の9月、慶應義塾およびサルトルの日本語版全集を出版していた人文書院の招待でサルトルとボーヴォワールが訪日し、三田山上で特別講演会が開かれた。

「義塾を訪れた外国人」という興味深い企画が本誌でたてられるが、その第1回目にふさわしい人選だと思う。というのもサルトル、ボーヴォワールの来日は義塾のみならず日本にとってもひとつの事件とも呼べるような出来事だったのである。私自身は当時中学生の、文学的には奥手の少年だったので記憶は曖昧なのだが、叔母の朝吹登水子が友人そして通訳として4週間にわたる全日程に同行していたし(ホテルや旅館にも同宿していた)、また父朝吹三吉も慶應義塾大学の迎える側の教員として東京での行程のほぼ全てにつきあっていたので、そのあわただしさというのか、騒ぎの雰囲気というものは私も肌身で感じていた。

サルトルとボーヴォワール

ジャン= ポール・サルトルについてどの程度紹介が必要であろうか。第2次世界大戦前に発表した哲学的な小説『嘔吐』で一躍注目され、戦中に主著『存在と無』を著す。フッサールの現象学、ハイデッガーの存在論をわがものにして存在とは何かを問う実存主義の代表作であるが、その評価は戦後に急激にそして熱烈に高まる。哲学の主著『弁証法的理性批判』を執筆、平行して劇作、批評活動を通して実存主義哲学を実践し広めたことでその名声はさらに高まった。文学の方面では1950年代半ば頃よりヌーヴォーロマンの台頭があり、また60年代始め頃から、レヴィ= ストロースといった構造主義の思想家たちにその主体偏重の思想を批判されるようになるが、一方、サルトルは作家や知識人の社会参加、政治参加(アンガージュマン)という立場を鮮明にしてゆき、政治的な発言や実践を増やしてゆく。50年代半ばから62年まで続くアルジェリア戦争ではアルジェリア独立を、そしてまたキューバ革命を支持するなど植民地主義に反対し民族解放を支持する立場をくずさなかった。また64年にはノーベル文学賞を受賞するが「生ながら神格化されることを拒否する」という理由で辞退した。後半生も精力的に執筆、政治活動をし、著作としては未完となってしまうが、ギュスタヴ・フローベールの評伝的批評である『家の馬鹿息子』という大作に至る。

シモーヌ・ド・ボーヴォワールは一貫してフェミニスムの立場をとった。その著書『第二の性』での「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という一行は有名であろう。自伝的小説『レ・マンダラン』はジェンダー論の基礎を作ったと評価され、また晩年には今日的なテーマである老後の問題を扱った大作『老い』がある。またゴシップ的な側面が強いが、サルトルとボーヴォワールの関係も「契約結婚」という内縁関係であることを公言していて、これも新しい夫婦のあり方として話題になっていた。

サルトルは73年にもともと斜視であった右目を失明するなど徐々に肉体的な衰えを見せ、80年に没する。構造主義の台頭以降も、脱構築の思想などの新哲学が一世を風靡し、実存主義哲学は流行遅れのような扱いを受けたこともあったが、今世紀に入り、とりわけ近年サルトルは世界的に再評価が進んでいる。

来日

時代を戻そう。サルトル、ボーヴォワールが来日した60年代半ばは、前々年にノーベル賞を辞退したこと、またキューバのチェ・ゲバラと会見したり、ベトナム戦争に反対するなど政治参加の姿勢を強めていたこともあり、2人は時代の寵児であったことは間違いない。日本でも60年安保から70年安保に至る10年はまさに学生運動の最盛期だった。革新的な思想の持ち主であるサルトルらが、官立の大学や大手新聞社などの招聘を受けず、私学である慶應義塾の招きを受けたのも、サルトル、ボーヴォワールの研究者、翻訳者に義塾の教授陣、塾員や慶應義塾の関係者が多かったこともあろうが、当時の政権から自主独立(独立自尊)していたことを評価されていたことも否定しがたいことだろう。それにしても作家であり哲学者ではあるものの、急進的な政治信条をかかげ、社会参加を実践している2人を招待した慶應義塾の懐の深さ、大きさに敬服するばかりである。

1966年9月18日午後8時、台風が接近しつつあるなか羽田空港に2人は到着する。すぐに空港内のホールで記者会見が行われ、100人を超える記者やカメラマン、関係者で会場は埋め尽くされた。記者会見の一問一答では次のような興味深い話も聞けたようだ。訪日の目的を訊ねられ、若い頃に教員として日本に来ることを願ったのだが採用されなかったこと、ようやく青年時代の夢がかなったことを打ち明けている。

東京での宿舎は慶應義塾が用意したホテル・オークラだった。会見を終え、その夜と翌日の日中は疲れを癒やすためにプライベートな時間とし、叔母と父との4人だけで夕食をとったり、翌日は銀座のデパートでの買い物や焼き鳥屋での昼食、名曲喫茶での休憩という一般的な生活を体験した。夕方からは義塾の関係者と講演の打ち合わせが行われたが、スケジュールの確認程度で終わる。一部には大学当局から政治的な発言は控えるように申し入れがあったと報じられたが、それは全くの誤報であり、義塾からは講演の内容に一切の注文は付けなかった。招待する側からすれば当然のことであるが、そういう風評が立つほどサルトル、ボーヴォワールの政治的立場は鮮明であり、それを承知で招待した義塾の度量の大きさを物語るエピソードだ。

翌日は慶應義塾の主催の歓迎会が行われ、永沢邦男塾長夫妻をはじめ、常任理事、戦前に『嘔吐』を読みその才能を高く評価したフランス文学科の佐藤朔教授(後の塾長)、『嘔吐』の翻訳者白井浩司教授らの教授陣、また作家の堀田善衛、俳優の芥川比呂志氏らの塾員が迎え、楽しい一夕を過ごした。

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