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【時の話題:TPP発効】
日本の〈食〉と農業の役割

2019/02/18

  • 久松 達央(ひさまつ たつおう)

    久松農園代表取締役・塾員

私が農業の世界へ飛び込んでから、約20年が経つ。現在、茨城県土浦市の農園では100種類以上の野菜を有機栽培し、個人や飲食店に直接送り届けている。ここでは、そうした農業経営者の視点から、TPP発効と日本の「食」の変化について考えてみたい。

この数年、TPPによって農産物市場の自由化が進み、国内農業は大打撃を受けるのではないか、あるいは競争と淘汰によって効率化・大規模化が促進されるのではないかなど、その影響が盛んに議論されてきた。

しかし、今次のTPPでは、ほとんど影響はないと言ってよい。わずかに、オーストラリアに対してコメの無税輸入枠を設けるなどの開放策も採られたが、それによって国内の稲作農家が受ける影響は小さいだろう。

むしろ、TPPによって1980年代のGATTウルグアイラウンドで議論されていた方向に、ようやく動き始めたと感じている。裏返せば、この30年間、構造改革もまったく進まなかったということであり、今頃になってやっとこの程度の合意に達したのか、というのが正直な感想だ。

さらに、今回のTPPには今後の改革を促進する材料も見当たらない。機械化・大規模化はどのみち進むだろうが、それらは国内需要など経営環境の変化に拠るところが大きく、TPPがそれを加速するとは考えにくい。

次に、消費者への影響を考えてみよう。まず、TPP自体が食生活に与える影響はあまりない。しかし今後、農産物市場のグローバル化が進展すると、日本人の生活スタイルの変化と絡んで、さまざまな影響が予想される。

例えば、キャベツを考えてみよう。人口が減り、高齢世帯、夫婦共働き世帯や単身世帯が増えてくると、キャベツ一玉を丸ごと買う人は少なくなるだろう。調理するのが面倒だし、ボリュームも多すぎる。代わって、袋に小分けされたカット野菜、つまり加工野菜の需要が増える。いわゆる「食の外部化」が進んでいるのだ。

そして、その一端を支えているのが輸入野菜だ。近年、加工食品の輸入量が増えており、それらは海外農産物が海外で加工されたり国内に輸入されてから加工されたり、また国内農産物が海外で加工されて再輸入されるなど、さまざまな経路から食卓に届く。

そして、こうした世帯構成やライフスタイルの変化に伴うフードチェーン(食品流通)の変化に、農業生産が対応できていない。そのため、流通がネックになって経営が立ち行かなくなる小規模農家も出てくるだろうし、そのことが食料供給を不安定にしたり、消費者の選択の幅を狭めたりする可能性はある。今後、食品の多様性が失われたり、質が低下したりといった変化がじわじわと現れてくるかもしれない。

では、こうした変化の中で、小規模農家は生き残れるか、またどのような役割を果たしうるだろうか。私たちの農園を例にとると、相手が国内産であれ輸入品であれ「安くて不味いモノ」と戦っている状況に変わりはなく、自由化の影響は心配していない。ただし、経営環境は確実に厳しくなっている。

実は、最大の敵は人々の「粗食化」だ。私たちは、旬・品種・鮮度にこだわり、美味しい野菜を最も美味しいタイミングで消費者・飲食店に直送している。だから、味にこだわって質の高い食品を買い、上手に調理して食べたいと望む人が増えれば、顧客層も広がる。一方、「仕事帰りにコンビニで出来合いの安いサラダを買えば十分」という人ばかりになると、勝負にならない。

日本は「美味い野菜を毎日モリモリ食べる」ことができる社会だ。これは、とても貴重で、幸せなことだと思う。そして、この豊かな食文化を守るために必要なのは、家族で一緒に調理をする、友人と賑やかに食事をする、お気に入りのレストランを探す、など「食べるという体験」にこだわり、楽しむ人が増えることだ。そうすれば、本当に美味しい農産物を作っている農家が競争に勝つチャンスも生まれる。

だから、私は「農家を守ってくれ」とは決して言わない。むしろ、皆さんには「もっとワガママになって!」と言いたい。日本はこれだけ成熟し、消費者の需要も多様化しているのに、農業は相変わらず均質な食料の大量生産・大量供給を旨とするような一昔前の状況から抜け出せていない。皆さんが声を大にして「もっと美味いものを食べさせろ!」と強く要求すれば、生産も流通も変わるはずだと思う。

見方を変えれば、農業こそチャンスに満ち溢れた「フロンティア」だと言える。農業に外からの資本と技術が本格的に流入するのはこれからだ。農業者の高齢化が懸念されているが、新しい取組みを始めている若い世代は着実に育ちつつある。自由化が進み、ボリュームゾーンを狙う大規模農家、ニッチを狙う小規模農家が切磋琢磨するようになれば、多様なイノベーションが生まれるだろう。農業は、実にクリエイティブな仕事なのである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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