【福澤諭吉をめぐる人々】
尺 振八
2025/10/16
共立学舎の創立と慶應義塾
振八は、江戸開城のあと、横浜の自宅や明治義塾などで英語を教え、1870(明治3)年の初め浅草近辺に英学塾を開いた。これが「共立学同社(共立学舎、以下学舎)」である。学舎には共同設立者として吉田賢輔の名が確認されている。吉田賢輔は、石庵のもとで振八と学び、幕臣時代に福澤と親交を結び、維新後に福澤の依頼に応じて慶應義塾で漢学を教えた人物である。その後自身も英語を学び、学舎創設に協力するのである。
開校からほどなくして塾生が増えたため、両国橋を渡った本所に移した。東京府に提出した「開業願」によると、これが1870(明治3)年7月、振八が32歳のことである。
ここで注目すべきは、「学舎社約」である。鈴木栄樹氏は「尺振八の共立学舎創設と福澤諭吉」(1990年)の中で、この社約と慶應4年4月の慶應義塾の「規則」および「食堂規則」がほとんど同一であることを指摘している。振八は、実用的な英語教育の他、漢学も重視して洋漢兼学を目指した。また優秀な塾生に授業を手伝わせる「助教」制度も採用した。これも福澤の「半学半教の制度」に似ている。
本所に移してから約半年後の『新聞雑誌』(第5号、1871(明治4)年6月)には生徒数111名とあり、東京府内有数の英学塾となっていた。
大蔵省翻訳局と晩年の翻訳活動
尺の教育者として高い評価を受ける理由は、大蔵省翻訳局時代の教え子たちの活躍にある。1872(明治5)年10月に開設された翻訳局(鈴木栄樹氏の「開化政策と翻訳・洋学教育──大蔵省翻訳局と尺振八・共立学舎」1994年に詳しい)の局長に振八は破格の待遇で抜擢された。局員は振八に近しい面々で固められ、静岡学問所の乙骨も招聘された。前述の田口卯吉や島田三郎(後の衆議院議長)は、翻訳局で力をつけ、政治・経済の舞台で活躍した。
1875(明治8)年9月に乙骨と大蔵省を退職した振八は、学舎での教育に専念したが、1879(明治12)年頃になると、自身の健康問題で閉校も検討するようになった。結局教え子の波多野伝三郎らが協力して学校運営と教育を引き継ぐことで閉校を免れた。
この時期の振八は、イギリスの哲学者、ハーバード・スペンサーの『Education: Intellectual, Moral, Physical』(1875年)の翻訳に精力を注いだ。スペンサー本人に直接手紙で疑問点や不明な箇所の確認を行う熱の入れようであった。こうして1880(明治13)年4月、『斯氏教育論』が発行され、西洋の自由な教育に関心を持つ人々に読まれただけでなく、「原文よりも名文」(海後宗臣『斯氏教育論解題』1928年)と言われるほど、日本語として受け入れやすく正確な訳文は、現在でも高く評価され続けている(森川隆司『明治初期英学者の翻訳態度──尺振八訳「斯氏教育論」の部分的検討』など)。なお、森川氏は「尺振八を含めて幕末・明治初期の翻訳家たちは、漢文をもって英文を制した」と述べている。振八は和漢英を自在に扱う、ある種の「トリリンガル」だったからこそ卓越した語学力を発揮できたのだろう。
この『斯氏教育論』が出版された頃、学舎は閉校した。学舎の中心メンバーが嚶鳴社を結成して活発に自由民権運動を繰り広げ、多くの門下生が取締りの対象となったことや振八の病状悪化もあり、閉鎖に至ったと考えられる。
最晩年、振八は英和辞典の執筆に取り掛かる。当時は初心者に手ごろなものがなく、正確かつわかりやすいことが意識されている。しかし体調は改善せず、Fから後の部分については永峯秀樹が手を入れている。結局『明治英和辞典』が完成したのは、振八が亡くなってから約2年半後の1889(明治22)年4月のことであった。
振八は1886(明治19)年11月28日、肺結核のため、療養先であった熱海で亡くなった。病の感染を恐れた振八の遺言により、ほぼすべての私物が焼却され、現在まで残る史料は非常に少ない。
尺次郎氏は希少な史料を丁寧に分析し、振八の姿を明確に伝記にまとめていた。『英学の先達』「後記」で気になったのは、次郎氏が振八の「神奈川・横浜での扱い」について嘆いている点である。東京では、新宿区北山伏町に「尺家旧居跡」の碑と「尺振八の業績」の説明版があり、共立学舎跡には、「尺振八の共立学舎跡」と教育委員会による説明板が設置されている(墨田区立両国小学校敷地内)。
一方、横浜では、運上所に勤務し、箱根で片腕を失った伊庭八郎を自宅(正確な所在地は不明)にかくまい、さらには初めて自身の英語塾をその自宅で開いたはずであるが、振八にふれるものは公的刊行物にも見当たらない。この文章が、横浜では振八にあまり関心が向けられておらず「いささか残念」と残した次郎氏の思いに応えるきっかけとなることを願ってやまない。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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