【福澤諭吉をめぐる人々】
教育者たち
2024/11/26
福澤諭吉は自らを学者ととらえ、学校の先生ではないと言っていたことはよく知られている。しかし、周囲は慶應義塾の創立者として認識し、学校の先生の代表格として扱われた。今でも慶應義塾は明治の三大義塾の1つと数えられ、福澤も明治六大教育家の1人ととらえられている。
では他の教育者から福澤の教育論はどのようにとらえられていたのだろうか。今回は、明治の教育界における女子教育を題材に、福澤の思想をめぐって教育者たちがどのような姿勢を示したのか取り上げたい。なお、本稿の内容は西澤直子『福澤諭吉と女性』に多くを拠っている。
慶應義塾と明治政府の教育政策
明治初期の教育行政は、漸進主義ではありながらも欧化主義的な内容を含んでいた。英学塾として他の学塾から一歩進んでいた慶應義塾で学んだ人材は、全国各地から教師として派遣を求められた。慶應義塾は教師の供給源であった。しかし、明治10年代に入ると、儒教主義的な傾向が強まった。明治14年の政変で大隈重信と慶應義塾出身の官僚が政府を離れると、教育政策に一段と儒教主義的な要素が強くなってくる。福澤はこれを批判し、『徳育如何』や『学問之独立』などの著作を世に問うたが、その傾向は変わらなかった。
この間の明治政府は私学冷遇政策を採用し、私立学校に対する徴兵令の適用除外が取りやめになったり、公立中学校や師範学校の校長・教頭には私立学校出身者は就任できなくなったりした。こうして官界のみならず教育界からも慶應義塾の勢力が減少していくことになる。
そして、明治23(1890)年には「教育勅語」が出され、以後の教育に強い影響力をもつことになる。内容は、天皇中心の国家体制を強調し、国民は天皇の家臣(臣民)として忠義・孝行などの徳目を守ることが正しい姿とされた。学校教育においては、「教育勅語」を具体化するため、科目としての「修身」でその徳目を身につけさせることとした。
福澤による「女大学」批判
その儒教的発想の代表として、江戸時代から女性はこうあるべきと強く人々の意識を固定化してきたのが、貝原益軒が書いたとされる「女大学」であった。この書に代表される男尊女卑などの儒教にもとづく道徳に批判的な福澤は、『時事新報』の連載をまとめた『女大学評論』を明治33(1900)年に世に問うた。多くの新聞雑誌は貝原対福澤に注目し、論評を加えたが、福澤に批判的な意見が大半だった。
福澤の思想は、男女平等、女性も仕事をもって一身の独立を目指すべきという近代的な内容であったため、古い儒教的な教えにもとづく、女性は外の仕事を持たず出産・子育てなど家の中のことをやるべきで、また、妻は夫にしたがうべきであるという「女大学」や、天皇の臣民として国民をとらえ上から儒教的道徳を押し付ける「教育勅語」とは相いれず、日本社会に儒教的な道徳を維持したい人々から福澤は敵対視された。その中には教師も一定数含まれていたのである。
晩年の福澤の関心事
晩年の福澤の関心事は、1つは『女大学評論』や『新女大学』といった著作を通じて、近代化する日本社会の中に根強く残る男尊女卑を批判することであった。脳出血で倒れた後も女性論の執筆意欲は高かった。ただし、同書は女性向けに書いただけでなく、男性にも読んでほしいと願っていた。福澤家には自ら「男子またこの書を読むべし」と筆書きした『女大学評論・新女大学』が残されている。男性の意識や習慣が変化しなければ男尊女卑の気風は払拭できず、本当の男女平等は実現できないと考えていた。
もう1つは、日原昌造や福澤門下生が「独立自尊」を中心に置いて、あるべき国民の道徳をまとめた「修身要領」の普及であった。福澤は、慶應義塾を廃塾にしてでも普及活動を進めようとして周囲に止められるほどの力の入れようであったという。
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末木 孝典(すえき たかのり)
慶應義塾高等学校主事