【福澤諭吉をめぐる人々】
沼田芸平
2024/08/26
福澤が、大阪にあった緒方洪庵の適塾で蘭学を学んでいた頃、他の塾生が「3人兄弟」と呼ぶほど、仲がよい塾生がいた。1人は、長与専斎。もう1人が沼田芸平(うんぺい)である。
蘭学への目覚め
沼田は、文政12(1829)年5月29日、長野県下水内郡戸狩村、沼田源十郎の二男として生まれ、幼名は敬介といった。生家は農家であったが、酒造業や薬種屋(薬売り)も営む裕福な家庭であった。父源十郎は私塾も開き、好んで狂歌を読むほど教養のある人で、芸平は幼い頃から家庭で漢文の素養を学び、さらに同じ戸狩村出身の飯山藩医である石田順英のもとで医道を学んだ。天保5(1834)年、沼田は15歳の時に、石田順英のすすめで、順英の先生である下野国の漢方医である島圀手の門人となり、漢方と儒学を学び、島家に訪ねてきた江戸の詩人、小野湖山の目に留まって、江戸への遊学をすることとなる。
江戸では、安井息軒のもとで経史を習いながら、漢詩結社である玉池吟社(ぎょくちぎんしゃ)に入り、小野湖山、萩原秋巌等と共に詩を吟じ、幕府の古川節蔵と最も親交があつかった。
沼田にとって、蘭学への目覚めとなったのが、佐久間象山との出会いである。佐久間象山は、天保11(1840)年に起きたアヘン戦争によって混沌としていた海外情勢を学ぶように、信濃松代藩主真田幸貫(ゆきつら)より命じられて、弘化元(1844)年にオランダ語から、オランダの自然科学書、医書、兵書などの精通に努め、西洋砲術家としての名声を得ていた。しかし、嘉永7(1854)年、門弟の吉田松陰が来航したペリーの艦隊へ密航を企て、失敗する事件を起こした。松陰から相談を受けていた象山も、伝馬町の牢屋敷に入獄することとなり、その後は、信濃松代へ引きこもり生活をしていた。
沼田は、松代で蟄居していた象山のもとを訪れ、蘭学ばかりでなく、欧州先進国からの医学を学ぶ旨を諭され、緒方洪庵の適塾を紹介される。
喧嘩と字が上手
安政3(1856)年10月14日、沼田は、緒方洪庵が開いている適塾の門人となった。沼田の名は、『福翁自伝』にも出てくる。1つ目は、適塾の塾生が喧嘩のまねごとをしていた話の中で、「信州の沼田芸平などはよほどけんかのじょうずであった」と福澤は沼田のことを評している。
もう1つが「クマの解剖」で、次のように書いている。
「道修町(どしょうまち)の薬種屋に丹波か丹後からクマが来たというふれこみ。ある医者の紹介で、後学のため解剖を拝見いたしたいから、だれか来て、クマを解剖してくれぬかと塾にいってきた。「それはおもしろい」当時緒方の書生はなかなか解剖ということに熱心であるから、さっそく行ってやろうというので出かけて行く。わたしは医者でないから行かぬが、塾生中7、8人行きました。それから解剖して、これが心臓でこれが肺、これが肝と説明してやったところが、「まことにありがたい」といって薬種屋も医者もふっと帰ってしまった。その実は彼らの考えに、緒方の書生に解剖してもらえば無きずに熊胆(ゆうたん)が取れるということを知っているものだから、解剖に託して熊胆が出るや否や帰ってしまったということがチャンとわかったから、書生さんなかなか了簡しない。これは一番こねくってやろうと、塾中の衆議一決、すぐにそれぞれ掛かかりの手分けをした。(中略)わたしが掛合い手紙の原案者で、信州飯山から来ている書生で菱湖風(りょうこふう)の書をよく書く沼田芸平という男が原案の清書する。それから先方へ使者に行くのはだれ、脅迫するのはだれと、(中略)またあちらから来ればこねくるやつが控えている。」
この熊の解剖の話は、福澤と沼田で認識は少し違うようである。沼田によると、薬種屋に利用されたことを知った塾生は、薬種屋を襲撃し、乱暴狼藉の限りを尽くして引き上げた。このことが緒方洪庵の耳に入り、大変激怒し、「謝罪をして来い」と言われたが、誰も応じる者がなかったため、当時塾頭であった福澤が責任を負うこととなり、長与専斎、沼田と協議することとなった。
その時、沼田は福澤に「君は書がうまいから詫状を書け」と言われ、詫状を書いて謝りに行ったそうである。沼田は、この思い出話について「字が上手なおかげで、こんな役をさせられて馬鹿々々しかった」と述べている。
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藤澤 武志(ふじさわ たけし)
慶應義塾幼稚舎教諭