【福澤諭吉をめぐる人々】
北里柴三郎
2024/07/05
福澤の警告
明治32年、伝染病研究所は国に移管され、内務省の事業として運営されることになった。実質的には国民の衛生を担う国家重要機関のようになっていた伝染病研究所を、その機能を拡充する為には更なる拡大も必要となる。白金台の新たな敷地で更に立派な施設を作り、名実ともに、コッホ研究所、パスツール研究所と並ぶ世界三大研究所と自負するような研究所となった。
しかし移管に際して相談を受けた福澤は、全事業が北里の指揮下にあることを確認した上で、「そうか、それはそれで宜しいが、それならここに一つ君に言っておくことがある。一体人間は足許の明るい中(うち)に金が溜まるなら溜めて御置きなさい。今日は政府が君に信頼しておっても、又何時気変りをして、どんな事になるかも知れぬから、決して油断せずに、足許の明るい中に溜められるだけ溜めて御置きなさい」と注意を忘れなかった。
この警告は、福澤の没後に現実となる。伝染病研究所は、大正3(1914)年10月、政府の方針で、突如、一方的に、内務省所管から文部省に移管し東京帝国大学に附属されることになったのである。
この時、その方針に納得できなかった北里は敢然と辞任を決した。研究所の全職員も、北里と共に辞任することを希望し、総辞職した。そして、翌11月には、養生園の敷地に私立の北里研究所を創立し、翌年には所屋も竣工した。福澤の注意を忘れずに、養生園は、北里の名声と田端の堅実な経営によって、収益を着実に蓄積していた。その資産によって官から完全に独立した研究所を設立することができたのであった。

学問の独立
その時の心境を、北里は、大正4年の1月10日、三田山上で開かれた福澤先生御誕生日の記念会で「そこが私の福澤先生から精神的感化を受けました所で、人間の独立自尊はここにあると私は考えたからでございます」と言い、次のように語った。
「とにかく先進の人の研究した所の主義方針に基き、今日まで独立してやつて居りましたのに、私のこれまでやって居ったのとは全然主義方針を異にして居る人の下で仕事をすることは出来ない。我が学問の独立心を尊重する以上は、節を屈してまでもそこに居らなければならぬと云う必要はないと、こう決心した次第でございます。」
福澤は、官尊民卑の打破、学問の政治からの独立を生涯強く主張し続けた人であった。そしてしばしば「節を屈しない」という表現を用いた。北里は、その表現までも、福澤の影響を強く受け、そしてそれを心の支えにしていたことがよくわかる演説である。
慶應義塾の医学部の創設は、それから間もない大正6(1917)年である。繰り返し検討されながら財政上の理由で実現しないでいた理科系学部増設の検討が丁度大正4年末頃からはじまった。理工科とするか医学科とするかの議論もあったが、決め手は医学科においてはその中心に北里柴三郎が得られるということであった。
福澤への報恩の念の強い北里は6年の福澤先生御誕生日の記念会で「かねて故先生の厚き知遇を得たる予が同大学を担任するには大に光栄とする所にして飽くまでも微力を尽す覚悟なり」と医学部への抱負を述べた。そして、北里だけでなく、ハブ毒の血清療法を開発した北島多一、赤痢菌を発見した志賀潔、化学療法剤サルバルサンを開発した秦佐八郎、寄生虫学の宮島幹之助をはじめとする北里の門下生達が創設に参画した。
大正9年、信濃町の地に病院が開院し、記念の式典が開催されたが、この時の式辞の案文が残っている。職員が記したと思われる本文に、北里は自筆で書き加えた。
「基礎部と臨床部と毎(つね)に連絡を取り共同研究をなさしむること。
学問の独立自尊は固(もと)より経営の独立。
慶應の学風は家族主義、余の主張と全く同一。奉公人根性なきこと」
「奉公人根性なきこと」に、自分の本心に背いて節を屈したり、官に媚びへつらうことを嫌った北里の気概と、義塾医学部の姿勢への強い願いがこめられていよう。
丁度、この7月から紙幣の肖像が変わるが、福澤から代る北里も、福澤の思想を受け継ぎ、官尊民卑の打破、学問の独立を大切にした人であることは、折々に意識したいものである。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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