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【福澤諭吉をめぐる人々】
澤 茂吉

2024/02/07

苦難の開拓

しかし、苦難は続いた。明治16年春は暴風雪が家屋を損傷し、夏にはイナゴの大発生が作物を食い尽くした。秋には暴風雨、翌17年は松方デフレで農産物価格や地価が暴落、株式の解約による事業資金の減少、さらには大凶作と、あらゆる困難が重なった。『浦河町史』はこの「言語に絶する」困窮は、「危急存亡の機」であったと記している。

そういった中でも、澤は信仰の元で生活するピューリタン的理想を求めた。そのため、開墾のかたわら、日曜日には農事の講習、経済、修身、徳義を説き、親睦を深める機会を設けるなどコミュニティーの形成や学問の普及にも目を配って移民たちの独立を重視した。明治17年にはそのための学校兼会堂として寄附金により私立赤心学校を設立した。学校とは名ばかりの40m2ほどの草小屋で澤自身が指導に当たった。これが明治24年に浦河小学校荻伏分教場が設けられるまでの唯一の教育施設であった。また明治19年には元浦河公会(現日本キリスト教団浦河教会)が設立され、開拓民の精神的支えとなった。

当初の赤心社の困窮は、札幌県庁にも達し、明治18年、特別慰労金860円が赤心社に支給された。社長の鈴木はその半額を移民の株主43名に分与し、これは移民の離散を食い止め、挽回の原動力になったという。その際、21名より分与金を基金としてその利子を徳育に活用したいとの申し出があり、徳育会が設立された。現存するその規約書には、成約者筆頭に澤茂吉の署名捺印がある。

茂吉はこの地の気候が牧馬に適することに目をつけ、明治19年には放牧地を選定して牧畜業を開始。馬種の改良や乳製品の生産に取り組んだ。また同年には商店の開業、明治21年には養蚕業の開始、26年には果樹園芸、さらに27年には地産の大豆や麦から醤油醸造を開始するなど、事業の多角化を次々に軌道に乗せていった。この頃行われた多くの北海道開拓事業が失敗を重ねた中で、荻伏の事例は模範的と評価されている。

荻伏開拓の功労者

『浦河町史』は茂吉の功績について次のように記している。

茂吉は、同社の移民達が住み慣れた郷土を離れ、親戚知友とも別れを告げて遠く気候風土の異った北海の寒天地に来て、見渡す限りの曠漠(こうばく)不毛の原野の中の茅屋に依り、雨露を凌ぎながら一意専心開拓の困苦を味う現実に直面したとき、人情として忍ぶべからざるの感切なるものがあったが、常に移民家族を慰撫督励し、寛厳よろしきをえたため移民達はその悲境を苦にせず、哀愁をかくして発奮の力をみなぎらした。……村有財産の造成、学校、病院、郵便局その他諸般の必要な施設の完備、道路の開鑿、河川の治水工事、橋梁の架設等、村百般の公共事業に対し、常に身を挺して東奔西走寧日なき活動をした。洵に荻伏村開拓の比類無き大恩人にして、荻伏村の今日在るは実に茂吉の努力貢献の結晶といっても過言ではない。

筆者が荻伏を訪れたのは、平成21年晩秋である。同年、慶應義塾創立150年記念事業の一環として全国3か所を巡回する福澤諭吉展が開催され、その中で従来よく知られている福澤門下の実業家たちではなく、「もう一つの福澤山脈」と題して、あえてマイナーな門下生を多数取り上げた。その時、澤茂吉の資料もご子孫よりお借りした。その返却のために訪問したのである。

澤の名は、荻伏開拓の功労者として今もその地で記憶され、浦河町役場荻伏支所前には、赤心社社長を務めた三田藩出身の鈴木清、種馬牧場の設置を実現し馬産地としての基礎を固めた会津出身の西忠義とともに澤の胸像が設置されている(本郷新の作)。

そして、驚くべきことに現在も浦河町荻伏町一番地に、生活用品や酒などを扱う商店として赤心株式会社が存続していた(平成30年に火事で焼失したが現在は復興している)。ご親族は今も親しく「茂吉じいさん」と呼んでいるのが印象的だった。その時、お願いして町営の瑞穂共同墓地にある澤茂吉の墓に連れて行って頂いた。

西忠義による撰文は風雪を経て薄れ、ほとんど判読が不可能な状態であったが、そこには茂吉の略歴と功績が漢文で簡潔に記されているようだった。指でなぞりながら、「君名茂吉摂州三田藩士澤甚左衛門長子…」と冒頭からたどっていく。末尾には、四字一句で功績をまとめる銘があり、「挺身北溟」「十年一日」などに混じって、そこに「独立自尊」の4字があった。寒風すさぶ北の大地に入植して同志を先導した澤茂吉の中に福澤のもとで学んだという意識が確かに生涯脈打っていたのだ。訪れる人の少ない墓地の小さな墓石に刻まれたこの4字に気付いたとき感じた身震いするような衝撃は、今でも忘れることができない。

澤茂吉は明治42年9月15日、56歳でその生涯を閉じた。

澤茂吉の墓

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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