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【福澤諭吉をめぐる人々】
澤 茂吉

2024/02/07

浦河町立郷土博物館所蔵
  • 都倉 武之(とくら たけゆき)

    慶應義塾福澤研究センター准教授

相替わらず御勉強、事業も次第に進歩の由、何よりの御事に存じ奉り候。人生の独立、口に言うは易くして、実際に難し。二十年の久しき、御辛抱一日の如し。敬服の外、御座無く候。

これは、明治29年1月25日付の福澤諭吉書簡の一節である。宛名は澤茂吉(さわしげきち)。北海道の襟裳岬から約50キロほどのところにある旧荻伏(おぎふし)村を開拓したグループの現地リーダーであった。「人生の独立」を口にするのは簡単だが、北海道の原野に新しい町を作り産業を興した長年の努力に、福澤は敬服の外ない、と書いている。福澤の数ある書簡の中でも、これほど切々と情がこもった労いの文面は珍しい。

三田藩士の子として生まれる

澤茂吉(旧名活哉)は、嘉永6年、摂津三田(さんだ)藩士澤甚左衛門の長男として生まれた。明治2年頃に上京して慶應義塾に学んだが、母犀(さい)のために学業中途で帰省したと伝えられる。母の墓碑によれば父は慶応元年に没しており、母1人子1人で苦しい生活だったと思われる。慶應義塾入学の記録は残っていないが、福澤宅住み込みなどで学んだ者にそういう例があり、あるいは澤もそのケースかもしれない。

澤の出身である三田藩の最後の藩主は、開明的な人物として知られる九鬼隆義(くきたかよし)である。福澤と三田藩の関係は、実に深く、幕末に蕃書調所で同藩出身の川本幸民(こうみん)に出会ったことに始まるという。幸民は福澤の25年年長だが、自然科学分野に造詣が深い学者で、隆義と福澤の出会いも幸民による紹介と考えられる。福澤は隆義の新たなことに挑戦する積極的な人柄に惚れ込み、親交を深めていった。『福翁自伝』には「かねて懇意の間がらで、一度は三田(さんだ)に遊びに来いという話」で実際に訪問したという逸話が出てくる。

九鬼家は、維新前から先進的で、洋式の軍事調練の導入や、英語学校の開設などを行っており、維新後も洋装、洋食の導入や、西洋の学問の普及などにいち早く取り組んだ。キリスト教にも早くより深い理解を示した。

そして隆義の金庫番的な役割を務めたのが、幕末に藩の大参事として隆義を支えた白洲退蔵(しらすたいぞう)である。彼の孫が戦後の日本の独立回復に手腕を発揮した白洲次郎だ。退蔵は福澤の助言も受けながら、殿様の資産が健全に維持拡充されるよう奔走し、さらに公益に資する事業に役立てるべく腐心していく。その取り組みの中に、貿易商社志摩三(しまさん)商会の設立や、神戸女学院の前身である神戸ホームの創立、神戸の都市開発事業などへの関与が含まれる。明治初期の神戸三ノ宮付近の地籍図には、志摩三商会や、同商会に参加した三田出身の小寺泰次郎(子に神戸市長を務めた小寺謙吉がいる)と並んで福澤諭吉の名前が見えており、福澤も神戸の土地投機で利を得たと言われる。

赤心社に入社

さて澤茂吉である。義塾を離れてから、奈良の蘭学者の元で育牛や練乳法を学び、明治7年頃には神戸で組合組織の製乳業を開業した。同時期の明治8年、摂津三田教会(発足時は摂津第三基督公会。第一は神戸、第二は大阪)が三田陣屋(三田城)大広間で設立された。その最初の洗礼式で受洗した16名の中に、澤茂吉とその母犀の名前がある。

澤の事業はその後、牛の疫病の流行で滞り、貧窮していたらしい。福澤が白洲退蔵に宛てて「少年の時より私の知る所」として茂吉の名前を挙げ、その身の上を案じ、職の斡旋を依頼している明治10年の書簡がある。それが関連しているかは不明だが、同年から12年には前述の神戸ホームで数学や漢文を教えたという。

彼の人生の転機は、明治15年4月、赤心社に入社したことである。同社は旧三田藩士を中心にしたキリスト教徒による北海道開拓結社で、明治13年4月に設立趣旨や同盟規則を公にした。そこには「無資の貧人」が少額を出し合って大きな事業を成し遂げる理想を掲げており、そのため株式会社組織をとり、8月には開拓使の認可を得た。そして日本で初めて牛肉缶詰製造を行った旧三田藩士の鈴木清が社長に就任、明治14年1月の株主総会では九鬼隆義や白洲退蔵らが委員となった。株式が600に達したことを受け、5月には第1次移民団50余名を送り出す。同社は明治23年までの開墾地の無償払下げの特典を受けていた。ところが函館経由で浦河の西舎(にしちゃ)に入植する計画は、荒天のために函館で足止めされ早くも資金が底をつく事態となり、漸く手配できた船で現地に到着したものの、完成している予定だった小屋は未完成。さらに道具類を載せた別便は千島方面に漂流と、最初から暗雲が立ちこめ、移民の離散も相次ぎ、事業は壊滅状態に陥った。

社長の鈴木はここで、現地指導者の重要性を認識し、澤茂吉を抜擢。明治15年5月、澤は第2拓殖部長として母犀、妻てい、長男亮を含む第2次移民83名で、札幌県浦河郡荻伏(現浦河町荻伏町)の元浦川流域へ入植した。翌年、澤は赤心社副社長となり、以降この地と移民たちの生活の発展に生涯を捧げるのである。

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