三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
石川暎作

2023/11/13

『東京經濟雜誌』1834号より 提供 西会津町教育委員会
  • 川内 聡(かわうち さとし)

    慶應義塾中等部教諭

「始て経済の定則を論じ商売の法を一変したるは『アダムスミス』の功なり」。『学問のすゝめ 五編』で福澤は、アダム・スミスの功績をこのようにまとめている。近代経済学の基礎である『国富論』(『諸国民の富』)の翻訳はこれまで数多くなされてきた。小幡篤次郎は、日本初となる部分訳を明治3(1870)年出版の『生産道案内』に掲載しているが、全訳の出版は明治21(1888)年まで待つことになる。

この全訳の完成に大きく貢献した人物が石川暎作(いしかわえいさく)である。石川は苦学の末に秀でた語学能力を磨きあげ、経済学者の田口卯吉(たぐちうきち)(号 鼎軒)らと欧米の経済書の和訳に取り組んだのである。

その最大の業績が、A. Smithが1776年に出版したAn Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nationsの全訳への挑戦である。しかしながら、彼の存在はあまり知られていない。なぜならば、道半ば28歳にして夭逝してしまったからである。

西会津で育った秀才

安政5(1858)年4月24日、石川は福島県耶麻郡西会津町野沢の酒造(現在の栄川(さかえがわ)酒造)の10代目石川市十郎の三男として生まれた。栄川酒造では祖先である石川の偉業に因んだ大吟醸『富国論』が販売されている。

さて、幼少期の石川は、儒学者で医者でもある渡部為助(号 思斎(しさい))の私塾「研幾堂(けんきどう)」で学んだ。慶応2(1866)年の開塾以来、地域から子弟を集めて法政・経済・文学・医学を指導し、石川と同い年で思斎の子である鼎(かなえ)をはじめ、自由民権運動で活躍した山口千代作や小島忠八ら、近代日本の形成に貢献した人物が数多く学んでいた。

渡部鼎は石川と共に野沢を出て高島嘉右衛門の洋学塾、藍謝堂(らんしゃどう)(以下、高島学校)で学んだ盟友である。「大学南校」を経て明治10(1877)年に陸軍医となった後、アメリカに渡って医学を学び、様々な医療分野に業績を残しているが、「野口英世の師」としても知られている。石川とは後述の「婦人束髪会」を結成し、女性の地位向上のための活動を行った。

研幾堂で学ぶ石川は「卓出」した勉強家であると評判であったが、それに満足することなく、明治5(1872)年、故郷の野沢から「出京」する決意を固め、横浜の高島学校に入学し、先に「西遊」していた渡部らに合流するのであった。これは明治4(1871)年に会津出身の山川健次郎と捨松が留学生に選ばれて渡米したことが影響したとされている。

『慶應義塾百年史』によると、当時の高島学校には複数の慶應義塾関係者が教師として派遣されていたことがわかる。その経緯として、「高島は福澤に対しみずからこの塾に出張して監督してもらいたいと望み、条件として福澤の子息2名の洋行費の提供を申し出た。しかるに、福澤はその誘いをきっぱりとことわって、自分には少し都合があって遺憾ながら貴意に応ずることはできない、しかし代わりに門人中最もすぐれた小幡篤次郎を推薦したい」と、小幡ら14名を派遣した、とある。当時これだけの塾関係者が1つの私立学校に派遣されていた例は他にない。

慶應義塾で学ぶ

ところが、この高島学校は明治7(1874)年1月に焼失してしまう。そこで石川は明治8(1875)年7月5日に慶應義塾に入学するのであった。『百年史』によると、明治7年に定められた「入社金」は3円、授業料は月2円75銭であった。当時の十五等官の月俸が12円だったことを考えると、学生にとっては大きな金額であったことは間違いない。石川もこの授業料に悩まされることになる。

とはいえ、高島学校に派遣されていた小幡ら教員の下、当時「日本における英学の一手販売ともいうべき学塾」(「百年史」)で英学を学べたことは石川にとって大きな財産となっただろう。

加えて、石川の入学した明治8年は5月に演説館が竣工し、三田演説会がさかんに活動していた年であった。石川も西洋式の演説や議論にさぞ刺激を受けたことだろう。それもあってか、後に翻訳事業と並行して行った政治結社「嚶鳴(おうめい)社」での演説活動では、石川の「辨(べん)論家ノ名忽(たちま)チニ揚」がることになった。

しかし慶應義塾でも再び学費に窮して退学せざるを得なくなる。明治9(1876)年11月に千葉の小学校の「訓導」(教員)に就任したが本意ではなかったためすぐに退職し、明治10(1877)年、尺振八(せきしんぱち)の「共立学舎」に入学するのであった。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事