三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
阿部泰蔵

2023/06/08

保険業に尽くす

福澤は、慶応3年発行の『西洋旅案内』の中で保険制度を「災難請合」と紹介するなど、早くから注目している。塾内では、明治12年末に福澤の下に集った小幡篤次郎、小泉信吉、荘田平五郎らの間で生命保険会社の設立が話題となった。明治14年には、塾内で生命保険会社創設がまとまり、そこで「担当」となったのが阿部泰蔵であった。これが明治生命である。阿部は、かねてより封建制度の撤廃以降に一家の大黒柱を失った遺族救済について心を砕いており、適任であった。同じく門下生の物集女清一を支配人として誘い、自らは頭取となる。立ち上げ期は、「書籍すら殆どなき有様」で「調査材料乏しきに窮し」三菱商業学校や井上馨などから本を借読し、やっと「保険の何たるか梗概に通暁するを得」るような中、奮闘した。

開業1カ月で加入者291名の成績を収めたが、その大半が福澤の門下生や社中関連会社の社員であった。阿部はさらに自ら全国に出張し、交詢社社員の集会等を拠点としながら、宣伝と加入者増に努める。それでも、当初は「利益を目的として起りたるに非らざりしを以て会社の重役も無給に甘んじ、其他有給者と雖いえども頗る薄給」で臨んでいる。

鎌田栄吉曰く、福澤は門下生の日本初の取り組みを成功させるべく意気込み、自ら保険に加入し、演説や文章でも保険を論じた。月給を得た卒業生には「先づ生命保険に入れと勧め」、「全体保険に入らぬ者は折助以下の「人間である」とまで極言」したという。(明治生命編「阿部泰蔵伝」)

この頃、愛知県議会議長をしていた阿部の兄、武田準平は、刺客に14箇所刺され惨殺されている。阿部自身がこのことに触れている史料は見当たらない。しかし、阿部は元々真面目で慎重な性格ながら、この時からより臆病になったようだ(孫の阿部愼藏談)。妻、兄の死は、保険業と向き合う阿部に少なからぬ影響があったかもしれない。

明治19年、コレラの大流行で被保険者の死亡が増え、支払う保険金も激増した。松方財政の影響も加わり「創業以来の災厄」となったがこれを切り抜けて後、経営は安定した。明治24年には、明治火災保険会社を設立し、そのほか東京海上、日本郵船、東京倉庫の経営にも参与し、明治31年には、渋沢栄一らと「生命保険談話会(後の生命保険会社協会)」を立ち上げ、阿部は初代会長に推されている。

大正5年、明治生命35年、明治火災25年を機に、阿部の功績を称えるべく、各界80名の発起により「阿部泰蔵君表彰式」が計画された。阿部の人格を欽慕する人々から非常な反響をよび、当日は朝野の名士および保険関係者約400名が出席し、拠金も大金となった。渋沢栄一は祝辞で、「阿部君の保険事業の如きは読書でいえば多読ではなく精読の方法で経営を行ったがためその根を堅くして進むことができた」と語り、銀行家で政治家の山本達雄は、この時代にあって政府の奨励も得ずに生命保険業を開拓した阿部と慶應義塾の稀有な功績を讃えた。

拠金は大理石胸像などの記念品に充てられたが、余剰金は阿部に委ねられた。阿部は「生命保険の誕生地たる慶應義塾に寄附いたし其図書館に於て此利息を以て生命保険に関する書籍買入れ斯の発達に資するやうに致したい」と「阿部文庫」を立ち上げ塾に寄付している。

なお、阿部はこれまでも幾度となく塾を救ってきている。まず西南戦争期には、財政難により廃塾を決意した福澤を小幡篤次郎らと共に説得している。さらに、社中に呼びかけ維持資金の第1回募金を始め危機を救った。明治34年には、福澤没後、塾の存廃問題が論ぜられた際も、阿部は財務委員として評議員会会長の荘田と尽力し苦難を乗り越えたばかりでなく、綱町運動場敷地の買い入れや商工学校の開校の旗振りもしている。小山完吾曰く、阿部はこの頃の塾にとって「実力を以て義塾の経営に発言しうる」貴重な存在であった。何より、阿部は幾度となく莫大な寄付金を塾に持参して経常費の不足を補い母校を支え続けた。

志と異なる職

阿部は、表彰式の年も鮮満地方の保険行脚をするなど精力的・献身的に働き、翌年、67歳でついに生保界を引退した。最後の演説では、「当局者と諸君との関係は極めて円満にして嘗て一回も紛争衝突を起したること無く、当局者より株主総会に提出したる議案は原案の儘通過するを常とせり。故に私は始終愉快の念を以て職務を執行致しました」と37年間を振り返った。

阿部は、引退後、大家族(9男4女に恵まれる。三女とみは小泉信三の妻)と共に余生を過ごしたが、旅先の温泉でガラスが墜落し大腿を負傷。後遺症で大正13(1924)年、76歳でその生涯をおえた。

四男の阿部章蔵(小説家の水上滝太郎)曰く「父は非常に無駄を嫌」い、「無駄口のきけない人間」で「自慢話の出来ない質」であった。当時の塾が儀式などを好まない風潮であったこともあるが、役人時代には一度も祭典祝日の催しには参官しなかった。演説は「一字一句も無駄の無いよく選択された言葉で組立てられたもの」であったそうだ。また、「父は少年時代の志とことなる職につき、成功はしたものの、学者に憧れる気持は、終生かわらな」かったようで、「人間は誰もが自分の望み通りの一生を送れるものではない。自分は学問だけをしていたかったが、家族を養わねばならず、このような道に進んだ」と伝え聞いている(水上瀧太郎『貝殻追放2』)。これらの想いを知り、冒頭の商工学校の訓示を再度読み返すと、無口な阿部の苦悩と誇り、そして自身の教訓を学生へ伝える阿部の愛と誠実さを窺い知ることができる。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事