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【福澤諭吉をめぐる人々】
阿部泰蔵

2023/06/08

福澤研究センター蔵
  • 小山 太輝(こやま たいき)

    慶應義塾幼稚舎教諭

阿部泰蔵(あべたいぞう)は、日本初の生命保険会社「明治生命」の創立者で、福澤諭吉が最も信頼を置いた高弟の1人である。

「如何なる職業に従事するにも、十分熱心にやらなくてはひかぬ。熱心と申しても、無暗に血気にはやるといふやうな事ではない(中略)世間に学問は不用である学問は無益であるといふやうな事を言ふ人が往々ある。諸君もどうか今後学間の罪人とならずに、此学校で学んだ事は、父兄の職業なり或は従事する会社なり、銀行なり工場なりの仕事に応用して、熱心に此学問を利用することにしてお貰ひ申したい」(慶應義塾学報142号)。これは、慶應義塾にかつてあった商工学校の卒業式で阿部が訓じた言葉である。阿部は生涯、学問を愛し、塾を援け、保険という職に熱心に向き合った人物である。

医家から学者、そして役人へ

阿部泰蔵は、嘉永2(1849)年、三河国八名郡下吉田村の医師豊田鉱剛(げんこう)の4男として生れた。万延元(1860)年、豊橋藩医の阿部三圭(さんけい)の養子となる。医家に生まれ、医家の養子となった阿部であったが、「当時の医師は、坊主などと一緒に見られて、甚だ格式の悪いもの」で「医師が大嫌ひ」であった。そこで、「儒者にならうと」考え、文久3(1863)年伊勢の儒者斎藤拙堂に師事する。しかし次第に蘭学に惹かれ、元治元(1864)年16歳のとき江戸に出て杉田玄瑞、中島三郎助等から蘭学を学ぶ。さらに青地信敬の塾へ通い早矢仕有的、荘田平五郎等と共に英学を学んだ後、慶應4(1868)年に鉄砲洲の福澤塾に入塾した。

同年4月、塾が芝新銭座に移って間もなく、上野では彰義隊の戦争が勃発する。大砲の音が轟く中でも福澤がウェーランド経済書の講義を行なったことは、慶應義塾の原点の1つであり、今なお初等部・幼稚舎生が歌う「福澤諭吉ここにあり」の歌詞として語り継がれる情景である。阿部は、その講義を聞いた18人の塾生の1人であり、後に「同日あたかも雨天なりし」と語っている。

在籍した2年半の間、3カ月交代ではあったが塾頭(塾長)も務めた。慶應義塾で再会を果たした荘田は「二年も経たないのに阿部さんは全く別人のやうになってゐた」と回想する。鉄砲洲時代の福澤塾は、「私塾の中で一番盛ん」ながら、「不規律乱暴」という評判であった。しかし、新銭座では「世間の評判とは全く反対になってゐた」。青地塾時代の阿部らは血気盛んで「一緒に女を相手に酒を飲むばど随分遊んでいた」が、新銭座では「茶屋、料理屋などに行く者は塾内でも評判が悪いといふやうな風」で、服装も大小を差さず丸腰、「服装容体などには一向頓着」しない様子に驚いている。

安田靫彦筆「福澤諭吉ウェーランド経済書講述の図」(福澤研究センター蔵)。手前に描かれている塾生が阿部。

明治3(1870)年、学業を了えた阿部は、官命で大学南校の教授職に就く。翌年、設立されたばかりの文部省に勤め、洋書の翻訳に携わる。その際、塾内でも大切されてきた、ウェーランドの『修身論』を訳出し、文部省刊行の唯一の修身教科書として発刊している。ミヤンマルティン氏によれば、阿部の『修身論』は、キリストを「聖人」、God を「天」など、原文の意味を巧みに意訳し「当時の日本人にあまり抵抗感を持たせずに文明社会の思想を伝播するという究極目的を果た」した「良訳」であった。(アルベルト・ミヤンマルティン『『修身論』の「天」』)阿部は福澤から「原文を一字一句も改め」ない翻訳は「読みにくくって面白くな」い。「緒方(洪庵)流儀で、意味を訳して早分りのするのが宜い、翻譯は原書を読む人に見せるのでないから、読む人に分るやうにするのが肝腎だ」という考えを学んでおり、その影響を色濃く受けていたと考えられる。

阿部は、継父阿部三圭の娘幾野(いくの)と結婚していたが、幾野はこの頃、第2子妊娠中の感冒がもとで亡くなっている。阿部は、一度塾に戻り教員となるが、明治9年再び文部省に出仕し、文部大輔田中不二麿の随行でアメリカ独立100年記念大博覧会に派遣され、見聞を広めた。帰国後、塾で漢籍を教えていた庄内鶴岡藩士俣野景明の娘優子を福澤の紹介で後妻に迎える。

また、福澤自身も長女が中村貞吉と結婚する際の仲介を同郷であった阿部に依頼している。福澤は、頻繁に呼び出し塾内における相談事をするなど阿部を頼りにしていた。また、読書会の同志でもあり、将棋仲間でもあった。阿部は、交詢社の立ち上げ・発展にも深く寄与し、福澤は当時この「小幡・阿部の諸氏の尽力」を評価している。

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