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【福澤諭吉をめぐる人々】
今泉みね

2023/02/09

晩年のみね(『蘭学の家 桂 川の人々 最終編』篠崎書林、 1969年より)
  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

築地の鉄砲洲に蘭学塾を開いた福澤諭吉は、近くの桂川甫周(ほしゅう)の家に足繁く通っていた。蘭学を志す者に羽振りの良い者はいなかったが、福澤の身なりはひと際質素で、木綿の着物に羽織、それに白い襦袢を重ねた程度、足袋に空いた穴など頓着しなかった。

ある日、福澤は、いつものように桂川家にある蔵書から借りた本で、ふところを一杯に膨らませ、奥の座敷で、主人の桂川と何やら話し込んでいた。すると、足袋の穴めがけて、松葉を十本ばかり束ねたもので、突っつく子どもがいる。桂川が熱心に話しているところだから、福澤は、ちくちくしても、声を挙げられず動くこともできずに、辛抱するしかなかった。このいたずらは、桂川家に出入りする蘭学者の間で「桂川の松葉攻め」と恐れられていた。攻撃の主は、桂川の娘みね(のちに今泉姓)である。

日本国中蘭学医の総本山

福澤が、『福翁自伝』で「日本国中蘭学医の総本山」と語った桂川家は、代々将軍の奥医師を務める家であった。初代は、もと森島小助といったが、蘭方医の祖嵐山甫安にその才を愛され、「桂川は嵐山の下を流れ、やがて大河になる」と勧められて、桂川甫筑(ほちく)を名乗った。甫筑は、甲府城主徳川綱豊の侍医となるが、綱豊が将軍(六代家宣)になると、奥医師となり法眼(ほうげん)に叙せられた。幕府の医官は昼夜交代で城に詰めるが、その首席(内科医)は法印、次席(外科医)は法眼を朝廷から叙任され、その地位は相当に高かった。桂川家は、代々法眼を世襲し、七代目の甫周(国興)に至る。なお、四代目も甫周(国瑞(くにあきら))を名乗り、杉田玄白、前野良沢らとともに『解体新書』の翻訳に携わったことで知られている。

桂川(七代甫周)は、わずか21歳(数え年)で、12代将軍家慶の奥医師となり、7年後に法眼に叙せられた。当時、長崎オランダ商館長のヅーフが着手した蘭日辞書は、フランソワ・ハルマの蘭仏辞書をもとにしたことから、「ヅーフ・ハルマ」と呼ばれ、幕府は長崎の通詞部屋と江戸の天文台、それに蘭方医の桂川家にしか置くことを認めなかった。適塾のヅーフ部屋にあった「ヅーフ・ハルマ」はその写本で、福澤の回想(『福翁自伝』)では、その一部を写して欲しいとの注文が塾生の生活費の助けになったというから、その貴重さが分かる。桂川は、ペリー来航という時代の変化の中で、特権を放棄してこの辞書を世に広めることが大事と捉え、若年寄との激論の末に幕府から刊行の許可を得た。増補校訂作業は、桂川の弟妹や桂川家に出入りする蘭学者たちの助けも借りて3年を要し、安政5(1858)年に「和蘭字彙(オランダじい)」と題して完成した。

桂川の妻は、浜御殿(現在の浜離宮)奉行木村又助の長女久迩(くに)であった。木村家の地位は高くないが財力はある。一方、奥医師の家は、地位は高くとも雨漏りのする家の貧乏暮らしである。この組み合わせは、「又助、娘を桂川に。仲立ちは余だ」の将軍の一声で決まったという。久迩は、長身で長刀、馬、武芸をこなす多芸の持ち主で、輿入れの翌日から、「これからは自分が主婦だから、何事も指図に従うように」と宣言し、早速、薬の名前を覚えてしまったという。借金も多く、弟妹も多い桂川家であったが、久迩が一家を切り盛りするようになって、家が治まった。夫婦仲が良いのも評判で、外出にはいつも駕籠(かご)が二丁揃っていた。安政2年3月に、次女みねが産まれるが、産後の肥立ちが悪く、久迩は8月に世を去った。桂川は、子どもがかわいそうだからと、後妻をもらわなかった。

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