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【福澤諭吉をめぐる人々】
牛場卓蔵

2022/11/09

山陽鐵道との最初の接点

明治20(1887)年4月、藤田組(現、DOWAホールディングス株式会社)土木建築部門と大倉組商会土木関係部門から成る日本土木会社(現、大成建設株式会社)が設立された。『大成建設社史』によれば、取締役社長に大倉喜八郎(大倉組商会頭取)、取締役に藤田伝三郎(藤田組社長)と渋沢栄一、東京駐在専務取締役に牛場が就いた。本山は、前年7月に藤田組へ支配人として迎えられていた。牛場の起用を巡っては、本山が何らかの形でかかわったものと思われ、その根拠は、『稿本本山彦一翁傳』の次の一節にある。

「十九年十二月廿七日の山陽鐵道創立総會では、藤田傳三郎氏を創立委員長に、荘田平五郎、原六郎、中上川彦次郎の諸氏を同委員に擧げた。そこで本山君は藤田氏の代理として創立委員長の事務を執り、奔走盡力少なからざるものがあった。この時本山君は牛場卓造(ママ)氏を山陽鐵道に入らしめて、もつて往年自己を兵庫縣廳に奉職せしめた舊恩に酬ひた。」

ただし、この時点で牛場の山陽鐵道入社を裏付ける資料には辿り着かない。「舊恩に酬ひた」というのは、実質的には日本土木入りと捉えることができる。なお、山陽鐵道は会社設立の出願に先行して、日本土木へ実測を委託した。当時は、業界全般で技術者が不足していたため、十数名が日本土木から出向した。日本土木が工事を引き受けた神戸~姫路間は翌21年11月に、姫路~岡山間は24年3月に開業した。両社は、特に建設時期において密接な関係を築いていた。この間、牛場が日本土木へ積極的にかかわった記録は見当たらない。22年以降の日本土木は大倉が一人で主宰していた。

牛場は、同時期の明治22年10月に大阪盛業株式會社(後の帝國ブラシ株式會社)を松本重太郎(山陽鐵道発起人の一人)らとともに興している。牛場が山陽鐵道入りするまでは、実質的に一人で仕切っていた。同社は、創業間もない23年、第3回内国勧業博覧会に出品した商品に初めて「歯刷子(はぶらし)」の名を用いたことで知られている。

国政に挑むも僅かな期間で引退

明治23年7月、牛場は第一回衆議院議員選挙に三重県第一区より立候補するも落選した。25年2月、第2回総選挙に同区より再び立候補して当選したが、議員生活を1期2年で終えた。『慶應の政治学』によれば、議員活動には自ら不向きと悟った、とある。

山陽鐵道へ

山陽鐵道とは、私設鉄道条例の下で初の免許が下付された事業者である。20年間にわたる同社の経営史は、初代社長中上川が担った初期と、松本ならびに牛場が率いた時代に大別される。中上川は、日本の主要幹線の一角ならびに内航海運との競争という要件を満たすため、今日にも通用する規格で敷設を指示して全線開業を目指した。求める厳しさゆえ周囲との軋轢が顕在化し、中上川は明治24年に社長職を辞した。代わって社長に就いたのは松本、空いた常議員(後の取締役)の枠には本山が新たに山陽入りした。

明治27(1894)年4月、牛場は総支配人として山陽鐵道株式会社に入社した。多忙な松本に代わり、当初より実質的に経営を担う立場であったと言われている。時は日清戦争下、現在も山陽本線最大の難所「瀬野八」を含む三原~広島間開業を6月に控え、当面の目標は全線開通であった。31年四月、三田尻(現、防府)へ西進し終点馬関(現、下関)到達も見通され、牛場は監査役に退く本山と入れ替わりで取締役(互選により専務取締役)に就いた。

牛場の功績は、社内の統率力と、業界全体の牽引者としての立場を勤め上げた二点に集約される。

社内においては、新規の取り組みに際して幹部をまとめ、その一点に向かって社内を協力させていたという。その幹部たちは有能で慶應義塾出身者が名を連ねていたことが特筆され、運輸課長西野恵之助、会計課長井田清三がよく知られる。牛場指揮の下で幹部たちは、急行列車、車内電灯、食堂車、寝台車、鉄道直営駅構内ホテルなどのサービスを日本で初めて提供した。その目的は、競合する瀬戸内海航路を意識しており、特にソフト面を充実させたことが同業事業者から注目を集め、業界を先導する立場へと押し上げた。

山陽鐵道は、日本を代表する民営鉄道事業者としての地位を確固たるものにしていた。牛場は、その事実上のトップとして業界のみならず社会全体へ提言を重ねた。明治31(1898)年、牛場は鉄道協会の副会長(会長欠員)を引き受けた。この協会は、南清(慶應義塾で一時期学び、山陽鐵道技師長を経て阪鶴鉄道社長)や村上享一(帝国大学卒)が中心となって大阪に設立し、鉄道従事者個人会員を単位として構成したことが特徴であった。牛場は同会の機関紙「鉄道時報」で、山陽鐵道での経験を基にした日本における鉄道事業の在り方を広く訴えた。代表例は、第十四号(32年5月28日発行)論説「鐵道營業の方針」、第三百二十九号~第三百三十四号(39年1月1日~同年2月10日発行)論説「私設鐵道利益配当制限論(一)~(六)」が挙げられる。同紙は日本初の鉄道情報紙として名高く、義塾出身の木下立安が発行事務を担い、この業務を通して鉄道記者の草分けと称された。

山陽鐵道国有化と牛場のその後

明治39(1906)年3月に鉄道国有化法が公布され、牛場は「山陽鐵道が官営に移ると共に鉄道界を去って閑地に静養すべく、仮令(たとえ)如何なる椅子を以て迎へらるゝも断じて官吏たるべき意志なし」と表明した。解散にあたっては、手当てを一銭も受け取らずに社員へ分配した。全社員は感激して謝恩金と記念品を牛場へ贈ったという。その社員たちは、培った力を実業界で開花させていった。義塾後進の西野は帝国劇場専務取締役へ、井田は麒麟麦酒専務取締役へそれぞれ就いた。鉄道育ての親は、社員の親でもあった。

鉄道界から身を引いた後は、帝国ブラシ株式會社(明治35年に息子の牛場徹郎が社長に就任)取締役を続けたほか、千代田生命相互保険会社の取締役を、井上角五郎の退任と入れ替わりに明治41年2月から大正5(1916)年2月まで務めた。千代田生命は、同郷の門野が創業から社長に就いていた。最晩年は、明石海峡を望む自宅(現、兵庫県神戸市垂水区塩屋町)で静養、大正11年3月に生涯を終えた。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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