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【福澤諭吉をめぐる人々】
牛場卓蔵

2022/11/09

鉄道時報局編『拾年紀念 日本 の鉄道論』(1909)より
  • 坂戸 宏太(さかと こうた)

    慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部教諭

「山陽鐵道育ての親」、兵庫県教育委員会編著『郷土百人の先覚者』は牛場卓蔵(うしばたくぞう)をこのように紹介した。牛場は慶應義塾に学び、新聞社、行政、政治家を経て鉄道界へ入った。本項では、山陽鐵道株式会社(現・JR山陽本線を敷設、開業)に至る人物模様と、鉄道界全体の発展に尽くした功績を含めてその生涯を振り返る。なお、牛場の経歴には、諸説存在しつつも特定できない点が少なくないことが指摘されており、記述に留意しつつ継続検討課題としたい。

生い立ち

嘉永3(1851)年12(1)月、牛場は伊勢国(現・三重県津市)で井早平十郎の第三子として生まれ、牛場圭次郎の養子に入った。明治5(1872)年6月、慶應義塾に入学、『入社帳』の府藩縣欄には度会(わたらい)縣志摩と記載されており、これは圭次郎の住まいであろうか。『慶應義塾學業勤惰表』では、5年6月から7年4月にかけてその名を確認できる。在学中は、雄弁家として門野幾之進、尾崎行雄らとともに知られていた。7年7月1日には三田演説会に入会が認められた。同会は、前月の6月27日に中上川彦次郎を含む幹事5名と福澤を含む会員8名で発足した。加入第一号の牛場は、福澤が示した会議の仕方に対して発議を行い、変更するなどのかかわりを残した。

実業家人生の起点は新聞社

明治7年、牛場は報知社(現、報知新聞社)が発行する日刊新聞「郵便報知新聞」へ論文を寄せる機会を得た。発端は、自由民権運動を背景に、同社が人材確保に迫られていたためである。まず、同年7月に編集担当者として迎えられた旧幕府の栗本鋤雲(じょうん)は、編集陣を強化するために福澤を頼った。『報知新聞百二十年史』によると、二人は初顔合わせとは思えないほど打ち解けて話もはずみ、福澤は快諾したという。門下生は続々論文を寄せ、中でも牛場、藤田茂吉、箕浦勝人(かつんど)によるものは好評を博した。翌8年3月、この三人は報知社へ正式に入社し、藤田は8月から主筆に、箕浦は論説主任に就いた。

職を転々として人脈を築く

明治10(1877)年、兵庫県勧業課長在職中の牛場は、県令の森岡昌純(薩摩藩士、後に日本郵船会社初代社長に就任)より神戸商業講習所(現、兵庫県立神戸商業高等学校)の設立準備を命じられた。牛場は福澤を頼り、兵庫県と慶應義塾の間に契約が結ばれ、翌11年に開所した。福澤は、校長に甲斐織衛(おりえ)(三田演説会発足当初より会員)、英学教師に飯田平作、帳合教授に藤井清の計3名を義塾より派遣した。義塾は同時期に東京商法講習所(現、一橋大学)の設立にもかかわったが、神戸のそれは地域の実情に最もかなう独特の方法を採用し、成果を上げた。

明治13年2月、牛場は矢野文雄の推薦で、尾崎、犬養毅とともに官庁の要所に入った。矢野は豊後佐伯藩出身で、同郷で学弟の藤田を住まわせながら塾生時代を共に学び、義塾の教員や報知社副主筆を経て11年に大蔵省書記官に就いた。困窮の犬養は、既に報知社主筆を務めていた藤田の家から義塾へ通った後に報知社入りしていた。

兵庫県勧業課長の後任には、本山彦一が就いた。本山は牛場よりも3歳年下で、肥後熊本藩士の家庭に生まれた。藩校時習館に学んだ後に上京、租税寮の官吏となった。本山は、実用的知識の習得には慶應義塾の学風が適切であると理解し、正課の課業を受ける余裕が無いものの、福澤から塾生同様自由に出入りすることを許された。明治11年、本山は官吏を辞して全国漫遊の旅への出発を控えた1月13日付で福澤から紹介状を受け取った。内容は、訪問の際に便宜を図るよう、牛場や甲斐を含む十余人へ依頼していた。道中で本山は牛場と意気投合し、牛場の推薦で兵庫県庁入りした。福澤が結んだ二人の縁がここに始まった。

明治15年3月、「時事新報」が創刊された。明治14年の政変で官僚から追放された中上川が社主に、同様に追われた牛場らが記者や編集を担当した。本山も兵庫県庁を辞した後に大阪新報社を経て、後に時事新報入りしている。同年12月、牛場、井上角五郎らは福澤の推挙により朝鮮政府諸政革新の顧問となり、現地へ渡った。福澤は、翌16年1月11日から13日付の時事新報社説に「牛場卓蔵君朝鮮に行く」を記し、餞とした。しかし、牛場はその実行を不可能と判断して5月に日本へ戻った。帰国後は大蔵省収税官となり、20年に退官したとされる。

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