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【福澤諭吉をめぐる人々】
大隈重信

2022/08/10

明治14年の政変の副産物

しかし、政変の故に生まれたものがある。それが、翌年に誕生した福澤による『時事新報』と大隈による東京専門学校(今日の早稲田大学)である。

福澤は、井上、伊藤、大隈との約束以来、新聞の発行に向けて人材の確保など準備を着々と進めていた。その意味でも、福澤にとって一方的な約束の反故は許し難いことであったが、その準備を独自の新聞の発行に切り替えたのである。そして、政変からわずか5カ月も経たない明治15年3月1日、『時事新報』を発刊した。当時の各新聞は党派性が強かった中で、同紙は、不偏不党、独立不羈の新聞として信頼を集めることになった。

一方大隈は、立憲改進党と東京専門学校を創った。そして、矢野、尾崎、犬養らが立憲改進党を支えることになった。大隈はこの時のことを、

先生は吾輩から見れば先輩で、吾輩も先生に依って、色々と利益を得た事がある、例えばこの早稲田の学校の出来たのも、吾輩が先生と交際して居たからと言って宜しかろう、(略)先生と交際するようになってから、教育に就いて色々研究を重ねたので、到頭(とうとう)学校を起す事になったのである。(『福澤先生を語る 諸名士の直話』)

と述べている。そのような関係にあったので、10月21日に催された開校式には、福澤と塾の長老小幡篤次郎が出席した。また、17年7月26日の最初の得業式(いわゆる卒業式)には、小幡篤次郎が祝詞を述べ、その翌年と翌々年は福澤が祝詞を述べている。しかし、福澤らが出席しているこれらの式に大隈は参列していない。東京専門学校が立憲改進党との関わりを邪推されることを恐れたのであった。大隈がはじめて公式行事に出席したのは創立15年の記念式典であったという。

「青年程無邪気なものはない」

福澤と大隈の類似性について矢野文雄は、

この二人はまことに相(あい)似相通ずる点が多い。ただ一方は学者であり、一方は政治家であると云うだけで、その性格はよく似ている。おそらく福澤先生を政治家にすれば大隈重信であり、大隈さんを学者にすれば福澤諭吉が出来たろうと思われる。(『大隈侯昔日譚補』)

と語ったことがある。しかし何よりも、二人共、若い人たちに温かな愛情を注ぎ、またよく励ます人であった。福澤が亡くなって8年後の42年、大隈は三田政治学会において「青年政治家に告ぐ」と題して演説したことがある。その中でこう語っている。

青年程(ほど)無邪気なものはない、青年ほど楽天主義のものはない、青年程愉快なものはない、青年程大いなる希望に依て充(みた)されて居るものはないのである、将来の光明は実に輝いて居る、吾輩書生大好きである、非常に好きなのである、衷心(ちゅうしん)書生を愛すること自分の子を愛する以上である。多分前の福澤先生もそうであったろうと思うのである。吾輩は福澤先生の如き大理想家大学者ではないが、併(しかし)ながら何だか性行が似て居るようである、大好きなんだ、先生も大好きなんだ。吾輩は先生より後輩であるが、先生又後輩を愛すること非常であったから、先生が吾輩を余程能(よ)く愛したのである。(「慶應義塾学報一四五号」)

大隈は、前述の通り東京専門学校を党派色のある学校とみなされないよう、自身と学校との関わり方には慎重であった。従って、福澤と異なり、学生とのエピソード等は極めて乏しく、教育者としての姿は見えにくい。しかし、福澤を巡って三田で語ったことの一文は、大隈自らが抱く東京専門学校の学生への心情を投影しているとも言えるように思えるのである。

「二人の荷物を一人で背負う」

明治34年2月3日、福澤は逝去した。この時の有名なエピソードがある。後に、福澤の四男、大四郎が『父・福澤諭吉』に書き遺している。

父が死亡した時大隈から立派な花が来た。玄関に居た大勢の大学生が受付を引受けていたので、使いの人におこころざしはありがたいが、お花其他の供物は凡て御辞退申し上げますというような口上を述べた。使いの人は予期していたように、それはよく判っていますが、この花は市中で買ったものではない、主人が持っている温室で自ら手を入れて作った花の中から自ら選んだ花で作らせ、それを御仏前にそなえてくれという友情である、それを断るのは余りに情ないというような事で一通り説明されたので、一同文句も云えない、ありがたく受取ることになった。

大隈には園芸の趣味があった。今日も残る大隈庭園はその名残であるが、ある時、大隈からこの温室で沢山の鉢植えを見せられた福澤は、こんなにたくさんの鉢を一々覚えられるものかと尋ねた。大隈は、一鉢でも置き換えられたら直ぐにわかると笑って答えたという。

大隈は、福澤を回想して、「すでになくなられてしまったが、先生はやり方がやり方だけにすこぶる敵が多かった。先生はそれに対して、口で言うとか筆で書くとかいう薄志弱行の徒ではなく、平地に波乱を起こすようなことは大嫌いであった。まことに温順・平和な人で、交われば交わるほど友のよしみに厚い人であった。が、どんなに圧迫を受けても所信をまげない。これが福澤先生の人格の高い所」と語った。そして更にこう続けたのである。

いつの間にか、知らず知らず、口調さえ先生に似てくる。はては先生とわが輩とは一心同体にして、社会につくすべき約束があるごとくにさえ感じたのだ。それに、今や先生がおられないのであるから、二人の荷物を一人で背負うような思いで、心ひそかに安からぬものがある。(『大隈伯社会観』)

慶應義塾と早稲田は、スポーツでは良きライバルとして多くの好試合を重ねてきた。両校は学校の成り立ちも異なり、気風も異なる。しかし、根底に存する相互のある種の信頼感と安心感、その原点は、両校の創立者、福澤と大隈の関係にあるのである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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