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【福澤諭吉をめぐる人々】
大隈重信

2022/08/10

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
  • 山内 慶太(やまうち けいた)

    慶應義塾大学看護医療学部教授

大隈重信は大正11年、すなわち1922年1月10日に歿した。従って、今年の1月10日、三田山上では福澤先生誕生記念会が例年のように開かれたが、午後には早稲田大学の大隈講堂で没後百年の記念式典が開かれた。

福澤諭吉は、天保5(1835)年生まれ、大隈は天保9(1838)年生まれであるからほぼ同世代であるが、大隈は長命で福澤の没後更に21年生きた。それだけに福澤没後に大隈が語った追想が多く残っている。主にそれを元に、両者の関係を見てみたい。

「一緒にやろうじゃないか」

二人がはじめて会ったのは明治4年か6年のことであるという。その時のことを大隈はこう回想している。

その頃わが輩は、いささか権力のふるえる役人で、その上書生気風が抜けていなかったから、図太いことをいうと、福沢もまた偉そうなことを云って役人をくさす。両方で小しゃくにさわっていた。こんな犬猿の間柄で、一方は民間学者のあばれ者、もう一方は役人のあばれ者、これをかみあわせたらさぞ面白かろうと、いたずらどもが考えた。上野天王寺のある薩摩人の宅で、芝居でも見るような調子でわれわれを引きあわせた。それを知らずわが輩が出かけ、先生もまた出かけて来たらしい。そのとき、わが輩は三十五六、先生は四十になるかならぬかだ。お互いに、これは福沢だ、これは大隈だと引きあわされて、名のりあった。不思議なところで初対面がすんだが、だんだん話しこんでみると、元来傾向が同じであったから、犬猿どころか話があう。けんかはよそう。むしろ一緒にやろうじゃないかということになって、それから大分心やすくなった。(『大隈伯社会観』)

以来、二人は親密な関係を続けた。互いの家を訪問しあい、家族ぐるみで付き合う関係でもあった。例えば、福澤がアメリカ留学中の長男一太郎に宛てた明治20年7月9日付の書簡には「明十日は拙者夫婦とおさと(長女里)と3名、大隈へ招かれ、これにも参らねばならぬ」とある。

大隈も、「一度知り合ってからは、非常に懇意になって、先生が吾輩の処へ来ると、家内共まで懇意になって居るから、一緒に晩食を食べる事もあったが、先生は酒が強く食事が長いから、且つ喰い且つ話して、夜も更ける処で、膳を片附けようとすると、未だ/\と云う風で家内を相手に酒を飲んで、却々(なかなか)良く話し込んで居ったのである」(『福澤先生を語る 諸名士の直話』)と語っている。

両者の協力と政変

二人が親しくなると、その交流は福澤の門下生にも拡がった。福澤から大隈に宛てた書簡を見ると、明治11年には、政府でエンサイクロペディア編纂の事を担当させられる人材の相談を受け、門下の矢野文雄を紹介している。また、政府に統計調査の部局設置が考えられるとやはり大隈からの問いあわせに対して、明治12年1月31日付の書翰で、「スタチスチックの仲間」として慶應義塾社中の13人の名前を記して伝えている。

また、同年8月には、対外金融業務が外国の銀行や商社に牛耳られていたことを憂慮した福澤は、当時大蔵卿の大隈に為替や貿易業務の為の銀行の必要性を説く。そして大隈も理解を示し、相協力して設立し、13年2月に営業を開始したのが横浜正金銀行である。そして、頭取には福澤と懇意の中村道太、副頭取には福澤門下の小泉信吉が就任した。

このような中で明治14年の政変が起こった。そもそもは、明治13年の暮れから14年にかけて、福澤は、大隈、伊藤博文、井上馨の参議三人から、政府は国会を開くことにしており、その為にも国民を啓蒙する新聞が必要であると考えを聞かされ、官報のような新聞の発行を引き受けていた。ところが、いわゆる北海道開拓使官有物払下事件等で世論の強い反発を政府が受ける中で、伊藤と井上は大隈に対する不信感を増幅させ、薩長藩閥の側に立って策を巡らし、丁度、明治14年10月、明治天皇の東北、北海道ご巡幸に大隈が供奉をして留守なのを良い機会と、大隈の罷免を企て追放した。しかも、大隈と福澤の一派とみなされたものは全て政府から一掃されたのであった。統計院幹事(兼太政官大書記官)の矢野文雄、統計院少書記官の牛場卓蔵、統計院権少書記官の犬養毅と尾崎行雄、外務権大書記官の中上川彦次郎らである。

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