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【福澤諭吉をめぐる人々】
大槻三代(その3 文彦)

2022/06/27

大槻磐水先生の誡語その子孫を輝かす

祝宴は、政官界やかつて明六社に名を連ねた人々を集め、福澤の意向を汲み、その名を消して印刷し直された「祝宴次第」に従って、盛大に催された。

『言海』刊行後、3年余りを仙台で過ごした大槻は、再び東京に戻ると、国語確立に注力した。大槻の文法論をまとめた『広日本文典』を刊行、政府の国語調査委員会が設置されると、その主査委員として、言文一致体の採用、漢字節減など多岐にわたる調査、報告を行った。大槻は、これより以前、「かなのくわい」(仮名の会)の中心的存在として、学習に時間を費やす漢字を廃し仮名文字の使用を主張し、反対派との間に論戦を展開していた。漢字の廃止は実現しなかったが、このような調査、研究、議論が国語の近代化への土台となっていったのである。

明治45年、冨山房社長の坂本嘉治馬(かじま)が大槻を訪ね、『言海』の増補改訂を勧めた。大槻自身、刊行当初からその思いはあったが、難事業の重さに踏み切れなかったものである。翌年、国語調査委員会が廃止されると、大槻は、朝7時から夜9時まで文字通り、増補改訂作業に没頭した。『言海』の編纂を助けた大久保を助手として東京に呼び戻し、隣の家に住まわせた。65歳を超えた大槻にとって、この事業は時間との闘いであった。大槻は、外国語辞書を参考に語原の考証を重視したが、それは時間を要する原因ともなった。作業開始から16年目、昭和3(1928)年2月、大槻は肺炎のため帰らぬ人となった。原稿は辞書全体の3分の2に当たる「さ」行まで完成していた。そこで兄の如電が事業を引き継ぎ、増補改訂版は、『大言海』として昭和7年に第一巻が刊行され、昭和12年の第五巻刊行をもって完結した。

福澤の祝詞は、祝宴の4日後の「時事新報」に掲載された。福澤の希望通り、祝宴では披露されなかったが、とはいえ福澤は大槻の偉業を祝わずにはいられなかったのだろう。その中で福澤は、「言海以前に日本に辞書なし」と明言して、祖父玄沢(磐水)の誡語(かいご)(戒めの言葉)である「遂げずばやまじ」に触れ、「遺訓こそ、実に君をしてこの辛苦に堪えこの偉勲を成さしめたるものならん」と、大槻三代に渡る強い精神力と忍耐力をもとにした業績を褒め称えた。「逝者若し霊あらば地下に莞爾(かんじ)として君の成功を賞せらるることなるべし」。父祖の霊はにっこりと微笑んで君の成功を褒めているだろう、という一文は、大槻への最大の賛辞であり、福澤の粋な祝詞である。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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