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【福澤諭吉をめぐる人々】
竹越与三郎

2022/04/14

福澤との関わり

竹越は福澤との思い出を何編も記事にしている。竹越にとって福澤は一言言えば天下の法となり、一文を書けば万民が唱えるような理想的人物であった。竹越は28年の福澤の還暦を祝う会に招待され、再会した福澤に時事新報社に再び迎え入れられた。その頃の福澤は朝鮮問題をめぐるロシアの動きを警戒していた。朝鮮を保護国化しようとするロシアを牽制するため、福澤は支援していた朝鮮留学生たちに英国公使館に駆け込んで英国の助けを求めるようはたらきかけ、留学生たちは実行に移した。すると西園寺外務大臣から呼び出しがあり、三田派の仕業だろうと聞かれた。竹越がそれを認めると、西園寺は外交の障害になるから中止するよう求めた(『倦鳥求林集』)。

その後、竹越は自らの雑誌創刊に意欲を燃やし、時事新報退社の意思を固めた。その竹越に対して、福澤は、新雑誌は必ず失敗するから止めるように忠告した。実業界で財をなしてからでも遅くはないとアドバイスしたが、すでに準備に入っていた竹越は聞き入れない。すると福澤は怒って卓を叩いたが、次第に落ち着きを取り戻し、「必ず失敗するだろうが、失敗したら必ず私の元に帰ってきなさい」と温かい言葉で送り出したという。竹越はその親愛の情に感激し、その際には必ず戻ることを約束して去った。

竹越の見る福澤思想

竹越が見るところ、福澤の教育の根本的思想は善良なる市民を作ることにあり、善良なる市民とは時務に通じる者であり、科学の真理を生活に応用し、独立自主を重んじ、退いては一身一家を立て、進んでは一国の大政を担当する者である。福澤は一生常識を説き続けたが、それが凡俗に陥らなかったのは、新政府に最後まで仕えなかったことに見られる意気地の強さ、「一鉄心」の盛んな所があったからだと竹越はいう。また、福澤は傍若無人で事を行う際には大胆敢為であったが、些細な事にも心を用いる細心さがあった。文章を書く際にも一字一句確認しては間違いを正していた。竹越の誤用がなかなか直らないときに、福澤が『仮名用格』という古書を買ってきたこともあったという。

竹越の見る福澤は、人民主義で愛国説を打破し、物質論で世の迷信を打破し、常識主義で偏狭固陋の徒を教え諭し、独立自尊主義で依頼卑屈の風潮を攻撃し、科学工芸を奨励して人民の日常生活に幸福をもたらそうとした。欧州の文明に洗濯されてはいたが、武士の意気地を示した純然たる日本人であった(『萍聚絮散記』)。

竹越の著書『萍聚絮散記』と『倦鳥求林集』

竹越の演説と生活

名文で知られる竹越の演説は数多くないが、どのようなものであったか。その演説は言葉に「雅趣があり精彩がある」と評された。話すスピードは少し速い方で、歴史上の言葉や学問的な用語を使うため筆記する際には漢字を当てるのに苦労する。演説を1つの文学として聴いて面白く書いても後世に残るように努め、その場限りでよいという考えは排除されている。竹越は、日本の演説がつまらないのは言葉に力がないからだと指摘し、意味と力のある言葉を吟味する必要があると主張する。また、歴史上の比喩がきわめて少ないことも指摘している。

竹越の癖は、演説で「あるのであります」、座談で「のである」を連発することである。これ以外には癖がなく完璧に近いといわれた。ただ、少しなまりがあり、「ゆえに」を「ゆイに」と発音する(『現代名士の演説振』)。ハイカラといわれた松本君平は、望月の演説は力が入って旨いが声が悪いと評し、竹越の演説は文章の通りで、前提あり、結論あり、比喩に富んでいるが、声がもう少し大きいとよいと評した。

ふだん竹越は客人が来ると、応接室に導き、来意を聞いてから書斎へ通す。するとコーヒーが出て、夫人手作りの西洋菓子が出てくる。書架の半分は洋書、残りは中国の唐本と和書が整然と並べられ、壁には陸奥宗光の肖像が掲げられている。東大久保の自宅は瀟洒な洋館であり、庭にはバラ園をつくり、バラを栽培する趣味を持っていた。関東大震災で残念ながら洋館は損傷し中野に転居した。このように、生活は外国風であり、「ハイカラ」といわれたのもうなずける。

その後の竹越

総選挙で落選した竹越に新たな事業を提供したのが朝吹英二であった。慶應出身の企業人らを多く集め日本経済史編纂会を組織し、竹越に中心的役割を任せた。編纂会は4年の歳月をかけて『日本経済史』全8巻を完成させた。海外からも英訳版に対して好意的な評価が寄せられたという。

その後、西園寺の推薦で宮内省臨時帝室編修官長となり、今度は『明治天皇記』の編纂に携わった。竹越は金子堅太郎と編纂執筆方針をめぐって対立し、大正15年に中途で辞任した。その後、西園寺の推薦で貴族院議員(勅選)となり、昭和15(1940)年には枢密顧問官に就任した。戦後、枢密院で日本軍の仏印進駐に協力したことを理由に公職追放処分を受けた。そして、昭和25(1950)年1月12日、老衰により85歳で死去した。

文人政治家竹越は、若い頃から安易に妥協することなく、自らの流麗な文体で人物や歴史を描くことに誇りを持ち続けた人物であった。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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