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【福澤諭吉をめぐる人々】
竹越与三郎

2022/04/14

福澤研究センター蔵
  • 末木 孝典(すえき たかのり)

    慶應義塾高等学校主事・福澤研究センター所員

明治大正期の「三大ハイカラ」といえば、望月小太郎、松本君平、そして竹越与三郎(たけこし よさぶろう)(三叉(さんさ))を指す。それぞれ「望小太(もちこた)」、「キミヒラ」、「竹与三(たけよさ)」と呼ばれ、世間の注目を集める存在であった。同世代の3人は新聞雑誌に筆をふるい、明治30年代半ばに衆議院議員に初当選した共通の経歴を持つ。中でも竹越は名文で知られ、徳富蘇峰や山路愛山と親交があり、『日本経済史』や『二千五百年史』などの大著をもつ史論家となった点が特徴的である。

生い立ち

竹越与三郎は、慶応元(1865)年10月14日、武蔵国本庄(埼玉県本庄市)において清野仙三郎とイクの次男として生まれた。清野家は元来新潟の一族であった。明治3(1870)年、本家の跡取りが死去したため、一家は柿崎(新潟県上越市)に移り住んだ。与三郎は地元で設立されたばかりの学校で学び、進学の志を強くする。しかし家業を継いでほしい両親と衝突し、13(1880)年、家を出て上京する。埼玉の伯父長井市太郎の家に身を寄せ、私塾で学ぶ。その後、中村正直(敬宇)の同人社に入り影響を受けるが、物足りなかったのか、翌年には慶應義塾に入塾する。16年に伯父竹越藤平の養子となり竹越姓に改姓した。福澤に誘われ時事新報社に入り、英語の翻訳記事を担当する。17年には東京商業学校で英語などを教えるようになり、若い頃から英訳書を次々と出版した。

記者時代

この頃、官民調和論を唱えていた福澤と周囲の慶應の人々に飽き足らず、執筆した記事が採用されないことへの不満もあり、竹越は慶應を離れ、新島襄、小崎弘道、海老名弾正ら同志社のキリスト者との親交を深める。彼らの拠点であった群馬で、19(1886)年に開校した前橋英学校で教鞭をとりつつ、小崎によって受洗しキリスト教信者となった。この頃、湯浅治郎とも知り合い、徳富蘇峰の民友社とのつながりを得た。そして蘇峰に感化され政論で身を立てる決心をする。『六合雑誌』や『国民之友』などに精力的に寄稿し、この頃には竹越の名前は世に広く知られるようになった。

22(1889)年、『大阪公論』社の主力記者となり、編集にも関わった。しかし、主筆の織田純一郎が東京に移ると、社内で孤立し、年末に退社した。23年には蘇峰の民友社に入った。記者としての武器は筆の速さであったが、書いた字の読みにくさは印刷所泣かせであったという。あるとき蘇峰から自らの記事の欠点を指摘されたことから、竹越は民友社を離れる意志を伝えるが慰留され、一度は思いとどまったが、結局、28年に民友社を離れ、再び時事新報社に戻った。

竹越は福澤から離れ新島や蘇峰を経て再び福澤に戻るという珍しい軌跡をたどったのである。このことから、福澤から離れたのは人間関係や思想の違いによるものではないことが分かる。

政治の世界へ

その後、師と仰ぐ陸奥宗光の紹介で西園寺公望と出会い、以後西園寺の側近として秘書的な役割を果たすことになる。西園寺は他の2人のハイカラとも親交があり、自らと似た外国通の若者を引き立てた。竹越は、両者の支援を得て、29年開拓社を設立し、念願の雑誌『世界之日本』を発刊した。

31(1898)年、第三次伊藤博文内閣で西園寺が文部大臣に就任したことから、竹越も勅任参事官兼秘書官に任命された。西園寺は教育勅語を刷新する意向を天皇に伝え了承を得ていたが、病が再発したため辞職せざるを得なくなり挫折した。このとき竹越も一緒に退官することになった。

33(1900)年には『世界之日本』を休刊し、失意の竹越は欧州に旅立った。ハイカラといわれつつも、これが35歳にして初めての外国訪問であった。その後、35(1902)年に新潟県郡部で衆議院議員に当選し、立憲政友会に所属した(当選5回)。日露協商論を唱え、39年に視察旅行で欧州各国を歴訪した。その際ロンドンで総会を開いていた列国議会同盟(IPU)に招待され、加盟前であったが日本の議員として初めて総会に参加した(伊東かおり『議員外交の世紀』)。翌年は中国視察で袁世凱らと会談し、民間外交を推進した。

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