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【福澤諭吉をめぐる人々】
大槻三代(その2 磐渓)

2022/03/28

一関市博物館提供
  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

咸臨丸が、太平洋横断を果たし、浦賀に帰港したのは、万延元(1860)年5月5日のことである。渡航の間に、日本では桜田門外の変が起き、攘夷の嵐が吹き荒れ始めていた。

福澤諭吉は、渡米前に門下の岡本節蔵(通称周吉、のち古川正雄)に蘭語の統計書の翻訳を託していた。帰国した福澤は、早速これを校閲し、『萬國政表』と題して出版にとりかかった。その書に序文を寄せるに相応しい人物として、福澤が白羽の矢を立てたのが仙台藩の漢学者大槻磐渓(ばんけい)である。

君不見出洋一歩天地別

大槻は、高名な蘭学者大槻玄沢(げんたく)(号は磐水(ばんすい))の次男として享和元(1801)年5月に誕生した。玄沢が45歳の時の子で、兄で蘭学者となる玄幹(げんかん)(磐里(ばんり))とは16歳離れている。幼名を六二郎、名は清崇(きよたか)、通称を平次郎(のち平次)というが、父祖の郷里である一関を流れる磐井川の渓谷(厳美渓(げんびけい))から磐渓と称した。4歳で読み書きを始め、15歳で幕府大学頭・林述斎に入門、翌年幕府昌平坂学問所に入塾し、諸生寮に入寮した。26歳までここに学び、斎長まで務めた。

大槻の子如電と文彦がその子たちに父の一生を物語った『磐渓事略』には、蘭学の家に生まれながら、大槻が漢学の道を歩んだ逸話が書かれている。ある日、父玄沢と蘭学の大家桂川甫周(国瑞(くにあきら))が雑談をしていた時に、今後蘭学を盛んにするには、横文字を適切に翻訳できる文章家が必要だという話になった。その時、玄沢が「十歳未満の子供だから今から云うと鬼が笑うかも知れないが家の六二郎は其任に当たりさうな者と思はれる」(『磐渓事略』)と言い、桂川は大いに喜んだという。

文政10(1827)年、大槻は長崎修行を志した。「横文字を翻訳」という父たちの構想にも叶うものであった。旅の途中、京都では頼山陽を訪ね、漢文の文稿を差し出したところ、頼から「後来有望」の評を得た。この時は、父危篤の知らせに急遽江戸に帰ることになるが、翌年、長崎遊学を果たす。ところが、シーボルト事件が起きたばかりの長崎では、オランダ人との接触もままならず、大槻の蘭学修行は収穫を得ぬまま、終えることになった。

天保3(1832)年、大槻は仙台藩から召し出され、江戸定住の学問稽古人を申し付けられる。これをもって兄から独立し、一家を興すことになるが、蘭学修養の望みは断たれたため、方針転換して漢学者、漢詩文の道を歩むことになる。一方、長崎では西洋砲術家の高島秋帆(しゅうはん)と交流し、これをきっかけに、のち高島の弟子に修行して皆伝を受け、藩から西洋砲術稽古人というもう1つの顔を得る。大槻は、蘭学者にはならなかったが、漢学者でありながら西洋流を理解し、かつ文武両刀を使える特異な地位を確立していく。

父玄沢は、仙台領出身の漂流民をロシア船が送り届けた時、その水夫に見聞したことを質問し、『環海異聞』という書にまとめていた。その話を耳に留めていた大槻は、ロシア贔屓でイギリスを嫌っていた。その心情を公にしたのが「献芹微衷(けんきんびちゅう)」という幕府への建白書である。大槻は、その中で北方の隣国ロシアと国交を結び、清国に侵攻したイギリスを防ぐべしという主張を展開している。ペリー来航の4年前の開国論である。ペリーの浦賀来航時には、異国船見届の藩命により、浦賀に赴き、その様子を藩主に報告した。翌年、ペリーが再来した時にも、見分のため急行した大槻は、仙台藩士では入れない横浜の応接所に、幕府の通詞(通訳)森山栄之助(多吉郎)の草履取りに成りすまして侵入した。森山は大槻を漢学の師としていたのである。場内に入ると、そこに知己の佐久間象山が現れた。2人が情報交換していると、身なりからして身分の違う2人が親しく話している姿を見とがめた幕府の役人から「わりゃだれだ」と大喝一声される場面があったという(『磐渓事略』)。

安政4(1857)年8月、大槻が漢学の指導をしていた脇坂安宅(やすおり)が外国掛を担当する老中となり、祝いに赴くと、時勢の如何を尋ねられた。その時、大槻が作って差し出した「天開行」という漢詩には、「(前略)君不見出洋一歩天地別(後略)」と、開国となったからには、こちらから外国に出ていくべきで、そこには全く違う天地があると、洋行の勧めが書かれていた。大槻の献策が実現したのは、万延元年の遣米使節団の時である。その随行員には、林門下で仙台藩士の玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)が正使付の記録係(『航米日録』を著す)として、大槻の門下で佐賀藩士川崎道民(どうみん)が御雇医師(漢方医)として加わった。大槻は、2人の壮行に漢詩を贈っている。一方、同行する咸臨丸を率いる軍艦奉行の木村摂津守喜毅(よしたけ)は、その父が大槻と懇意であったため、大槻のもとで漢学を学んでいた。また木村の姉は桂川甫周(国興)の妻という間柄であった。福澤諭吉は、足繁く通っていた桂川から紹介状を書いてもらって木村の従者として咸臨丸に乗り込むことができた。そのため「福澤さんも此時度々来られ磐渓先生と種々御相談なされた事もあった」(『磐渓事略』)のである。大槻は、送別に当たり、木村にも長編の漢詩を贈った。無事帰着した木村が大槻にアメリカ土産として贈ったのが、『ペリー提督日本遠征記』であった。

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