三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
甲斐織衛

2022/02/26

甲斐商店の開業

東京に戻った甲斐は、福澤や朝吹、中上川彦次郎(福澤の甥で時事新報初代社長)からの出資を受け、交詢社の一室を借り、甲斐商店を開業した。明治19(1886)年にはサンフランシスコに支店を開設し、日本雑貨・美術品の直輸出を開始する。なぜ、サンフランシスコだったのか。

甲斐が知ったのは、サンフランシスコでは中国人が日本の雑貨・美術品を持ち込んで利益を上げている、ということだった。サンフランシスコは、太平洋航路の玄関口ということもあって日本人移民が増えているのに、どうして日本人が日本の品々を売っていないのか。それまで直輸出の実現に携わってきた甲斐にとって、それは当然生まれる疑問であり、解決したい課題だったのである。さらに、アメリカ製品の直輸入も合わせて始めたらしい。

明治20年元日に中上川が本山彦一(山陽鉄道で中上川と協力)に送った書簡によると、中上川は甲斐商店の経営に参加する希望を持っており、甲斐商店の支店を増やして経営規模を拡大させる計画もしていたようだ。福澤に更なる出資を仰いでいたともいう。

ただ、同書簡にあるように、当初の甲斐商店の経営は厳しかった。銀貨下落により輸入で大きな損失が出たのが原因だった。福澤は出資を取り止め、中上川も甲斐商店への参加を結局断念した。支店はサンフランシスコのみとなった。

それでも甲斐は挫けなかったのだろう。その後セントルイスとサンディエゴに支店を開いて販路を拡大し、日本では輸入したアメリカの巻煙草が評判となった。明治39年のサンフランシスコ地震で大打撃を受けても立ち直った。明治末年には、「北米に於ける甲斐商店の名は日本雑貨を代表するが如き趣あり」(『慶應義塾出身名流列伝』)と評されるまでになった。

他方、甲斐商店は渡米する義塾出身者にとっても大きな存在となった。筆者は本連載の25回49回でニューヨークの貿易商、モリムラ・ブラザーズに触れ、アメリカ東海岸を訪れた義塾出身者が同社を頼っていた様子を紹介したが、西海岸で同様の役割を果たしたのが甲斐商店だった。甲斐商店を頼って渡米し、同店で勤務もした人物として、のちに財界人として飛躍する和田豊治や武藤山治、福澤の妻の甥である今泉秀太郎がいる。実現はしなかったが、福澤がアメリカ留学中の娘婿・福澤桃介に、甲斐商店で実業の経験を積むよう助言したこともある。そして、本稿の冒頭で再び紹介したように、田中ら移民団を支えたのも甲斐商店だった。

その後の甲斐商店

ところで『福澤諭吉事典』の「甲斐商店」の項では、その営業の詳細や明治以降の推移は不明としている。本稿を準備するにあたっても、管見の限り、まとまった情報を得ることはできなかった。

ただ、『和田豊治伝』によると、大正7(1918)年7月、和田は68歳となった甲斐を訪ね、事業の縮小と、在庫品を売却して借金の返済に充てることを勧めている。甲斐商店は大正期に入ると、理由は不明だが、難しい状況にあったのではないか。大正10年に甲斐が甲斐商店の増資を相談した時も、和田は反対している。そして大正11年3月に甲斐が亡くなると、甲斐商店は閉業することになり、和田がその整理を担当したという。

なお和田は甲斐の葬儀を斡旋し、さらには家族が生活に困らないよう、2万円を贈ってもいる。和田が親身になってその家族を支えたのは、若き日の和田がサンフランシスコで甲斐から受けた恩を生涯忘れなかったからだという。生前の甲斐の、後進たちに対する温かな支援の様子が目に浮かぶエピソードであろう。

サンフランシスコ甲斐商店陳列場の和田豊治(福澤研究センター蔵)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事