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【福澤諭吉をめぐる人々】
中山博道

2021/10/27

福澤の居合抜き

福澤は中津にいた頃に居合を習い、晩年、日課として散歩や米搗きに加え、居合抜きを欠かさなかったが、三田旧演説館で剣道の会をする際には、福澤がやってきて居合を披露した時もあった。中山は、福澤の居合については、次のように語っている。

「剣道の会などを致します時には先生が御覧においでになります。おいでになってその時代の剣道部長浜野定四郎(塾長も務めた)という先生に、俺もやって見よう(中略)それで、角帯に刀をさして、そうして居合をお抜きになります。私はその当時居合をしていないが、あの太刀風がプュッという声(音)が先生が刀を振られる毎に実に見事に思うておりましたが、私らも居合を習ってあんな風にやりたいものだとその時分に感じておりました。あの居合で剣に声があるまで行きますのは、自分で修行しました結果、日々の稽古をしましても10年間やらねば、あの剣に声ありという太刀風のあるものではございません。それを福澤先生はちゃんと目の前で見せて、大抵6本ばかりお抜きになったのですが、実に今思うと刀筋も結構であったように思う。(後略)」

座談会では当時の剣道部員が、その頃の塾生が非常に柔弱になってきたから今度は武を以って精神を養っていかなければならない、と福澤が語ったのを中山も次のように回想している。

「「どうも学問学問といって、少しも武の心がないから、決断がないからフニャフニャで駄目だ。それで武道を修めて学問を生かしていかんければいかぬ」という話をされたかと思います。学問のみをして何んにもならない骨のないようなものであるということを云われていたそうです。」

中山は、慶應義塾で師範を務めていた時代は一般斬界の傾向が剣道即体育という具合で、学生も本当にこの体育的剣道に専念していた、とふり返っているが、それがだんだんと、剣道即勝敗に激変していくことにつながることを危惧していた。中山は、剣道の発展や時代の流れの中で、勝負に興味がいくことは仕方ないが、あくまでも自分自身は、剣道は勝負の具ではない、という思いを守り通していきたいと考えていた。

この2時間にわたった座談会の記録は、中山の福澤との繋がりや剣道観、そして当時の慶應義塾を知ることもできる貴重な財産である。

少年たちへ伝えたかったこと

中山は、雑誌『少年倶楽部』に2度登場している。そのうちの1つを紹介しよう。昭和10(1935)年新年特大号に「範士中山博道先生に劍道のお話をきく」という記事が4頁にわたって掲載されている。

『少年倶楽部』は大正4(1914)年に創刊された子供向け(小学校後半~中学校前半)の雑誌である。中山がインタビューに答えているこの号の表紙は、少年剣士の絵が凛々しい。この記事から3つのテーマを紹介する。

1つ目は、記事の中で中山は、『少年倶楽部』の読者と同じ年頃に、父から下駄の脱ぎ方を毎日厳しく仕込まれたと語っている。

「剣を握る前に、先づ自分の心をしつかと握りしめなくてはならぬ」という父の考えから、下駄修行をさせられ、きちんと下駄の脱ぎ方を守れなかった際に叱られたこと、この下駄修行がどれだけためになったか、ということを語り、少年たちに向けて、「皆さん、ひとつこの下駄修行をやって御覧なさい。今は靴が多いから、「靴修行」ということになりますかな」と、この修行を薦めるにあたりユーモアを交えて伝えていることも印象的である。

2つ目には、「忘れられぬ根岸先生のお言葉」として、自身の剣道の先生であった根岸信五郎が中山の肩を叩きながらよく言っていた言葉、「中山、褒められなければ稽古に励みがつかないようじゃ偉くなれんぞ。稽古は自分のためぢゃ、自分を鍛えるのに、人様に機嫌を取ってもらわなくては……という法はないのう」を紹介する。そして、褒められるということは、確かに嬉しいことであるが、褒められないからと言ってすねたり、しょげたり、怠けたりするのは男じゃない。やるからにはどこまでもやりとげる。褒められようが褒められまいがそれは問題じゃない、と語っている。

3つ目には、「剣道式勉強」として、中山は次のように語っている。

「竹刀をとって、さっと敵に向かつた時、その1本の竹刀の中に、その人のすべての力がこもります。敵を斬る以外に何も思わない、考えない、迷わない、その気持というものは、剣道をやる者だけに恵まれた貴いものです。

私は常々、この剣道式の真剣な気持で勉強していただきたいと思っております。この真剣さで机に向ったら、普通3時間かかるところを2時間で立派にできませう。いや1時間半で片づくかも知れません。(中略)忙しいからとか、試験だからとか言って稽古を休む人は、剣道をやりながら、剣道の大きな徳に気づいていない気の毒な方です。」

中山は小学校に通っていなかった、という記録がある。しかし剣道を技術的なことだけでなく、精神面でも教育的にしかもわかりやすく語る人であったことがわかる。自らの経験の中で学び得たことを少しでも少年たちに伝えたい、という心意気も感じられる。

1人の人間としてどうあるべきか

第二次世界大戦終了後、暫く剣道の稽古が禁止された。中山は戦犯容疑をかけられ横須賀拘置所に入れられるも後に無罪で釈放された。昭和33(1958)年、脳軟化症で亡くなり、根岸信五郎と同じ天真寺(港区南麻布)に埋葬された。

中山の遺した教えは、剣道の稽古の場面のみならず、生活面や精神論など、1人の人間としてどうあるべきかを説いている。「師範」という立場に必要不可欠な要素を兼ね備えた教育者としての一面も見ることができる。福澤に接したことがどのような影響を及ぼしたかを考えると、更に興味深いものがある。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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