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【福澤諭吉をめぐる人々】
中山博道

2021/10/27

明治24 年剣道大会記念集合写真。前列中央に福澤、右端が中山。(『つるぎ 第五號』(1931.8 発行)より)
  • 白井 敦子(しらい あつこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

中山博道(なかやまひろみち)といえば、明治、大正、昭和の三時代に渡って活躍した武芸者である。また、剣道、居合術、杖術において史上初の三道での範士の称号を授与された人物で、「最後の武芸者」「昭和の剣聖」とも呼ばれ、剣道の雑誌には特集や連載が組まれ、剣道の愛好家には今でも、その名は知られている。

福澤諭吉は、運動として居合抜きを日課にしていたが、中山はそれを目撃し、後に述懐している。「剣聖」中山の目には、福澤の居合はどのように映ったのであろうか。

武芸の達人

後に、慶應義塾をはじめ、東京大学、中央大学、法政大学、明治大学、警視庁、皇宮警察、三菱財閥、三井財閥等々、その他多くの場所で師範として活動し、有信館道場を継承した中山であるが、その経歴の詳細は曖昧なものが多い。息子にあたる中山善道が、博道の談話や覚書などを基に記憶を辿ってまとめた「口述集」等を頼ることになる。

中山は、明治5(1872)年2月または6年3月に、現在の石川県金沢市に中山源之丞の8男として誕生し、幼名を乙吉といった。8歳にして家を出て、働きながら剣術や柔術を学んだとされている。その後、上京し、根岸信五郎のいる有信館道場に入門した。この有信館で修行をつんだ中山は、信五郎の養子となり、根岸資信と改名し稽古に励んだ。

中山は剣道の道に進み、山口一刀流、神道無言流、大森流、長谷川英信流居合術、天道流、武蔵流棒術を学び、何れも免許皆伝を得た。更に弓術の稽古、西洋剣術の研究、銃剣術、槍術等、幅広い武術経験があったとの記録もある。

福澤との出会い

さて、慶應義塾体育会剣道部がその歴史を振り返る際、目にする1枚の写真が残っている。それは、明治24年の剣道大会記念で撮った集合写真である(冒頭写真参照)。この集合写真の最前列には、福澤、剣道部員の学生、そして中山が並んでいる。明治11(1878)年に創部した剣道部は、23年より師範を迎えた。27年に、根岸信五郎が師範となり、根岸資信すなわち中山も助手の立場で剣道部に関わるようになる。そして中山は根岸信五郎の後を継いで師範となり、慶應義塾の剣道部の指導を行った。

中山は自身の「口述集」で、慶應の師範になったのは25歳の時と語っており、若くして「師範」の立場に就いている。福澤は60歳を迎えようとしていた頃である。2人には30歳以上もの年齢の差があるが、お互いの眼にどのように映っていたのだろうか。

昭和9年6月26日に開催された慶應義塾の剣道部OBによる座談会には中山も出席し、福澤と出会った頃について次のように回想している。

「私はその時分まだ至って弱冠でありまして、充分福澤先生の偉大なことを存じませんでした。(中略)始めてお目にかかった時に、福澤先生が私に対して、あんた今後何んになる心算(こころづも)りか、こういう話がありました。私は、剣術、今は剣道と云いますが、その時分はまだ剣術と申していました。剣術を以って立ちたいと思います。そう申し上げましたら、面白いことを云うんだなあ、今から剣術をやってどうするのかね、そういう話があったんです。然し人は思い思いだからと云うだけでその時は何もお話しございませんでした。(中略) 洵(まこと)に柔和な、わたしらに話されて居られる時に、顔の中に何時でも笑顔があったと思います。(後略)」

中山は、道場に見に来ていた福澤から、自分の学問上の体験を例に、剣道ではどうかと話しかけられたこともあった。福澤は、「汽車」や「汽船」を例に洋行してはじめて見てようやくわかったということを語ったという。

中山は、福澤と出会った頃には、福澤が何を伝えたかったのかがちっともわからなかったと言う。しかし、段々と年齢を重ねていくにつれて、福澤の教えが武道に対して実に結構な教えであると感じるようになっていく。中山によれば、剣道は、ある程度までは形の面から眼に見てわかるものだが、それ以上は形而上のもので、言語でよく伝え得ることができないと言う。そして、「福澤先生は、お話の中に形而下と形而上の話を罩(こ)めてご自分の勉強されておられたそれを私に注意して戴いたものだと思って、今もそれを常に服膺しております」と述べている。

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