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【福澤諭吉をめぐる人々】
富田鐵之助

2021/09/03

第2代日本銀行総裁

富田は、明治9年10月に米国より帰国するが、2年後には、再び縫を残し、2年半ほど一等書記官としてロンドンに赴任する。帰国した富田は、明治14年10月に大蔵権大書記官となり、活動の舞台を外交官から財政金融へ移す。明治14年の政変直後のこの時期、大蔵省の実権を握った松方正義大蔵卿のもと、日本銀行創立委員となって、吉原重俊大蔵少輔らと数十回に及ぶ討議を行った(松方、吉原は旧薩摩藩出身)。明治15年10月に開業した日本銀行の初代総裁には吉原が、副総裁には富田が就任した。ところが吉原は、病気がちでほとんど出勤のできない状態であったため、富田は事実上の総裁として行務を取り仕切り、政府とのやりとりも担当した。吉原が現職のまま病死すると、富田が第2代日本銀行総裁に就任する。打診を受けた富田は即答を控え勝海舟を訪ねて意見を求めた。

勝海舟建立の西郷隆盛留魂詩碑(右)と富田 が記した建碑由来記(東京・洗足池畔)

勝の日記「海舟日記」には、慶應2年9月19日の初出より、特に米国から帰国以降、富田の名が頻繁に登場する。そのほとんどは、「富田鐵之助」と名前を記すだけであり、富田が気軽に師を訪ねていた姿が思い浮かぶ。ただし明治21年2月5日の記録は、富田の名だけではなく、「進退の事につき、松方正義へ一封、存じ寄り認め遣わす」と続き、富田の総裁就任を後押しする勝の動きが読み取れる。

富田は任期中、公定歩合の弾力的な変更など、積極的な金融政策に当たるが、横浜正金銀行に対する資金供給問題で松方と対立し、総裁を辞任(事実上の更迭)した。辞任の1月前、福澤が中上川彦次郎に宛てた書簡には、「富田も松方の機嫌を損じたるよし」(書簡1097)とあり、福澤もその動向を気にしていた矢先のことであった。

富田は、7年におよぶ副総裁、総裁時代を通して日本銀行の基礎を築いたと言えるが、富田自身は「讒謗(ざんぼう)嫉妬の禍ひ 余を攻撃するに至る」(富田の手記「辞職始末」『忘れられた元日銀總裁 富田鐵之助傳』)と当時を回顧する。富田の能力と長い海外生活によって得られた新知識は、余人をもって替え難く、それを評価した森有禮らに登用されたが、出世には限度もあった。想定外に総裁となった朝敵(仙台藩)出身の富田に対する薩長の圧力は、富田にとって耐え難いものであったに違いない。

総裁辞任後の富田は、東京府知事、貴族院議員や多くの企業の取締役を務めた。晩年も家庭は円満で、仙台関係で求められると多額の寄付をしていたため、家計は豊かとは言えず、質素な生活を送っていたという。富田は、大正5(1916)年2月、家人に見守られて永眠した。その報を知らせる朝日新聞は、富田を「性謹厳にして飽迄平民主義を持してゐた」と評した。日本銀行を退く時、功を労って政府から5万円が贈られることとなったが、富田は、「功なくして賞を受くるは悪例なり」(『仙臺先哲偉人録』)と言ってこれを固辞したという。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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