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【福澤諭吉をめぐる人々】
富田鐵之助

2021/09/03

真福寺蔵 (仙台市博物館提供)
  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

明治7(1874)年、ニューヨーク副領事の富田鐵之助(とみたてつのすけ)は、結婚のために一時帰国し、福澤諭吉の家で式を挙げた。相手は、杉田成卿(せいけい)の長女縫(ぬい)である。縫は、蘭学の先駆者杉田玄白の曾孫であり、杉田家は代々蘭学者、蘭学医の家である。式では婚姻契約書が取り交わされた。契約書には、2人の署名に続き、行禮人(仲人)として福澤諭吉、證人として富田の上官であった森有禮(もりありのり)(後の文部大臣)が名を連ねた。福澤の夫婦平等の精神と実践は改めて記すまでもないが、森も一夫一婦論を『明六雑誌』に展開しており、式に参列した人々の思想が、婚姻契約書に結実している。4カ月後には、森も結婚し、同様の婚姻契約書を取り交わして、證人として福澤が署名している。この式は、新聞記事にもなり、日本最初の契約結婚と喧伝されたようであるから、富田の結婚こそが日本最初の契約結婚の可能性もある。そして、式の経緯からみて、福澤が富田と縫を結び付けたのではないかと考えられる。

殆ど最初の西洋留学生

富田家は、仙台藩の着座と呼ばれる重臣の家柄で、知行高は二千石である。富田鐵之助は、實保の四男として天保6(1835)年に生まれた。「生まれつき体質強健、頭脳明晰」、「勝気で一度何かを云えば飽までそれを通さねば気がすまぬといった気象」(『仙臺先哲偉人録』)であった。江戸に出て勝麟太郎(海舟)の氷解塾(ひょうかいじゅく)の塾生となった後、米国に留学する勝の子息小鹿(ころく)の随行を命じられた。富田とともに随行が決まった庄内藩の高木三郎によれば、「両人之を聞きて天にも昇る心地」で、「殆ど最初の西洋留学生たることなれば、其狂喜の状今更想像に余りける」(『高木三郎翁小伝』)という喜びようであった。富田の留学と、その間の一カ年千両の学費支給に尽力した仙台藩公儀使の大童信太夫(おおわらしんだゆう)は、福澤と親交があったから、福澤と富田の関係も渡米前より始まっていたのかもしれない。

勝一行がコロラド号で横浜港を出港したのは、慶應3(1867)年7月のことである。仙台藩では、高橋和喜次(後の是清、第7代日本銀行総裁・内閣総理大臣)ら2名の少年も同行させ、2人は下等船客として乗り込んだ。富田は彼らを気遣い、上等室の食べ物や小遣いを与えたが、高橋は小遣いを酒代に充て、他人の分まで使ってしまった。富田は、「君はこの船で帰れッ」と叱りつけ、「前後三日間ばかりも通ってやっとお勘気が直った」(『高橋是清自伝』)ほどの怒り様であったという。勝一行はボストンで英語の勉強を始めるが、1年と経たないうちに幕府瓦解の報がもたらされる。富田と高木は、矢も盾もたまらず、途中サンフランシスコで奴隷同然に身売りされていた高橋を救出した上で、一時帰国した。帰国した2人が勝を訪ねたところ、「軽々に帰り来るは甚だ我が意に背く」(『仙臺先哲偉人録』)と叱責され、「帰後に悔む」(「海舟日記」)という有様で、勝から私費を支給されて直ちに再留学することとなった。米国に戻った富田は、ニューアークのビジネスカレッジに入学した。校長のW・C・ホイットニーは、英語力不足の富田を自宅に寄宿させ、妻アンナが英語を指導した。

明治4年には、初の外交官派遣として米国駐在の少辨務使(公使)森有禮が赴任、その翌年、岩倉使節団が渡米してきた。この機会に富田は、政府の外交官に登用される。そして明治6年4月5日付の大童宛書簡は、「小生今度副領事とやら申事に而紐(ニューヨーク)育に在勤とやら 新に被命候」とニューヨーク副領事就任を伝えている。

東京一の佳人を得申候

福澤は、遣欧使節の随員として渡欧後、幕府に召し抱えられ外国方翻訳局に出仕した。そこで、外交文書の翻訳にともに携わったのが、杉田玄端(げんたん)と杉田廉卿(れんけい)である。玄端は、尾張藩医の出であるが杉田本家の養子となって家督を継いでいた。一方、杉田分家で縫の父である成卿は、当時、緒方洪庵と並ぶ蘭学の第一人者であったが、病弱で早くに他界したため、杉田家では長女縫と結婚する形で養子に廉卿を迎え入れていた。『福澤諭吉全集』に所収の「幕末外交文書譯稿」の中には、福澤と玄端、廉卿が訳者や校閲として共同で翻訳に従事した文書が記録されている。焼失したと思われた杉田玄白の『蘭学事始』の写本が露店で発見されたのもこの時期である。福澤は、廉卿に「君が家の蘭学事始は我輩学者社会の宝書なり」(「蘭学事始再版之序」)と、出版を勧め、出版費用を負担した。『蘭学事始』は、明治2年に出版されるが、その1年後、廉卿は玄端や縫の看病虚しく26歳の若さで肺結核のため死去する。その後、縫の親代わりとなった玄端は、慶應義塾に医学所が開設されると、その診療所の主任となっていた。

このように杉田家と深い縁を持つ福澤が仲人となり、富田と縫は10月4日に結婚式を挙げる。富田は満38歳になっていた。式後、2人は江の島に新婚旅行に出かけ、福澤は馬に乗って途中まで見送ったという。新婚生活は、福澤家の裏座敷であった。ここから大童に宛てた結婚報告で富田は、「福澤初め諸友人之周旋に而 東京一の佳人を得申候」と喜びを伝えている。

證人となった森有禮は、在米中に教育制度に関心を持ち、商業学校創設の必要性を訴えていた。ビジネスカレッジに学んだ富田との合作の構想とも思われる。森の働きかけで、「商法講習所相設の届」が受理されたものの、その後大きな進展のなかった商法講習所創設に、転機となったのが富田の結婚であった。福澤は11月1日に「森富田両君の需(もとめ)に応じて」、『商学校を建るの主意』を書き、小冊子として出版した。福澤は、「商売を以て戦ふの時代には商法を研究せざれば外国人に敵対すべからず」と、その必要性を説いた。

富田は慌ただしく、数日後にはニューヨークに帰任することとなった。結婚したばかりの縫は、「何れにも米国江は携へ不申都合に候 旅費之多端を厭へ候故也」(前述の大童宛書簡)と日本に残り、暫くの間、福澤宅に世話になった。縫は、「先生はほんとにマメな方で、毎朝お米を一臼づつ搗かれる、お台所の掃除まで自分でなさるといふ方でした。私共は時々御一緒に御飯をいただいたことがありました」と回想している。福澤は、米国の富田に宛てた書簡に、「御令閨様御機嫌能」(書簡一八九)などと縫の様子を伝えている。

福澤の主意書に、「米国の商法学士ホウヰツニー氏積年日本に来りて商法を教へんとするの志あり」とある、米国での富田の師ホイットニーは、家族を連れて明治8年8月に来日し、森有禮宅に住んだ。福澤宅からこの建物に引っ越して、一家の世話をしたのが縫であった。14歳で来日した長女クララが異国での生活を書き留めた『クララの明治日記』には、「上流階級の出で、本当に上品できれいな方」と評された縫が、富田の帰国でホイットニー家を離れるまで、毎日のように登場する。

福澤もホイットニー一家を気遣い、家に招待したり、贈り物をしたり、馬に乗って家を訪ねたりしている。クララは、「いつも親切にしてくださるので私は先生を尊敬している。強い男らしい方で、いろんな有益な本を日本語に訳しておられる」などと書き綴った。もう1人、ホイットニー家と家族ぐるみの交際をして、一時期は自邸内に家を新築して住まわせたのが、富田の師勝海舟であった。後の話になるが、クララは勝の三男梅太郎と結婚し、クララの兄ウィリスは、勝から土地を買い取って赤坂病院を開院し、医師、牧師として日米友好に尽くしている。

商法講習所は、明治8年9月に開校した。富田は、商法講習所が東京商業学校になって後、同校の商議委員を10年ほど務め、今日の一橋大学となる同校の存続に寄与した。

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