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【福澤諭吉をめぐる人々】
新島 襄

2021/03/30

慶應と同志社

熊本バンドの学生は演説経験があったことから、同志社でも演説会が盛んに行われた。明治14(1881)年、同志社が開いた演説会は学術講演会の形をとったが、京都の人々にはキリスト教の布教活動と受け止められた。それでも最初の演説会は約5千人もの聴衆を集めた。これに警戒心を強めた本願寺は京都交詢社経由で慶應にキリスト教排斥演説を依頼した。京都では互いに演説会を開いては攻撃し対立が激しくなった。この時期は、福澤も、キリスト教の広がりに対して日本の独立を脅かすと警戒していた。『時事小言』では「耶蘇宗教の蔓延は、後生子孫、国権維持の為に大なる障害」と主張し、また、自ら演説でも「仏法を以て耶蘇教を防ぐ可し」と、キリスト教に対抗するための仏教擁護を繰り返した。ただ、その後キリスト教も効用があると態度を軟化させ、これには新島も驚いている。

また、キリスト教主義を掲げる総合大学の設立は新島の悲願であった。期限として常に議会開設の明治23年を意識していた。それは旧弊を払拭し開国した日本が立憲国家となる年であり、立憲国家にふさわしい知識や品行を備えた自立した人民を育てることが国家百年の大計だと意識していたからであった。その新島にとって、同時期の慶應義塾の大学部設立の動きは競争相手と映り、東京の蘇峰に依頼して慶應の動向をいち早くつかんでいた。結局、先行していた同志社は慶應の後塵を拝することになった。それでも新島は人脈を生かして著名人の協力を得ることに成功し、大隈重信や井上馨ら政治家や実業家が後援者として名を連ねた。新島の死後、内村鑑三や植村正久らキリスト者はこうした政治家にまで募金を依頼する手法を批判し、特に植村は「洗礼を受けた企業的豪傑」とまで呼んだ。

新島は、校長として教師と生徒間、外国人教師と日本人教師間の対立で常に板挟みになった。教会合同問題では、内心反対しつつも賛成派と反対派の間を取り持った。大学開設運動でも、米国では伝道者養成を強調する一方で、逆風の日本では宗教学校ではなく国家の役に立つ人材育成を強調して協力を呼びかけざるを得なかった。総じてジレンマの人であった。

新島の死後、同志社が米国教会との関係を断絶し、教会合同派の小崎が新島の水面下での反対の動きを批判したことを考えると、新島の存在が様々な対立のバランスの錘となって破綻を防いでいたといえる。ジレンマの中で苦心し命を削りながら、敵をつくらず誠実に、信を貫いた。欧化政策の時代とはいえ、新島がもっと過激な人物であったらキリスト教は早期に排斥されていたと思われる。

福澤と新島

2人の共通点を探ると、家族環境や若い頃の海外経験以外では、学校創立者でありながら自らを先生ではないと明言していたことや品位を重んじていたことがある。福澤は「僕は学校の先生にあらず、生徒は僕の門人にあらず」と上下関係を否定し、対等な個人が集まった社中によって成り立つ学校を強調し、「気品の泉源」たることを求めた。新島も「我は諸君より先生、先生と曰わるるを悲しむ」と述べ、同志としての学生一人ひとりと向き合うことを好み、キリスト教にもとづく品行の陶冶を目指した。そのような新島にとって学生の処分「自責の鞭」で打ち消すことは自然の行為だったのかもしれない。ちなみに新島は常に「福澤先生」と福澤には先生をつけていた。

福澤と新島を対比し異なる点を強調する論法は、新島と同志社を世に売り込もうとした名プロデューサー蘇峰が使い始めて定着した感がある。ただし、プレゼンターである新島自身も熱意あふれる演説で多くの人を魅了したことも事実である。聴衆は、他の名だたる雄弁家よりも新島の涙ながらの話に最も心を動かされたという。新島の語った内容は、蘇峰も認める通り、福澤ほどの深い学識は感じられず、ウィットに富むものでもない。しかし、現実に日米で多くの人の心をつかみ、大学開設資金を集めた。いわば「高いプレゼン能力」と誠実な人柄が新島の武器だったといえよう。

これまでの評論は、福澤には新島的な要素を、新島には福澤的な要素をそれぞれ求め、結果としてその不足や欠落をもって批判してきた。しかし、福澤は福澤、新島は新島であり、それぞれ多くの人に影響を与えたのである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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