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【福澤諭吉をめぐる人々】
新島 襄

2021/03/30

福澤研究センター蔵
  • 末木 孝典(すえき たかのり)

    慶應義塾高等学校教諭

徳富蘇峰は明治の教育者として好対照な福澤諭吉と新島襄の2人を比較し、現実には福澤が成功していることを認めつつ、一貫して恩師新島を応援した。応援したくなる新島の魅力とは何だったのか、また、全く接点のない関係であった福澤と新島に共通点はないのだろうか。

生い立ち

新島は天保14年1月14日(1843年2月12日)、安中藩の江戸屋敷で藩士新島民治、母とみの5人目の子として生まれた。正月の七五三縄から七五三太(しめた)と名づけられた。一家にとって女の子が4人続いた後の長男であったため、周囲はちやほやし、七五三太も自分の意思を通すことを当然視して育った。環境として福澤諭吉が長男三之助と3人の姉に囲まれて育ち、父や兄の死後は一家の中心になった点と似ているといえる。

さて、新島は藩主に選抜され13歳頃から蘭学を学び始めたが、すぐに記録の保管などの雑務につくことになり、仕事を無断で休むなど不満を行動で表し始めた。これに対して周囲は強くとがめた。万延元(1860)年から幕府の軍艦教授所に通って数学や航海術を学ぶことができたが、2年後、眼病のため退所。その頃、洋式帆船に乗船する機会を得て玉島(岡山県)まで航海し自由を満喫する。英学を学び始めた新島は、元治元(1864)年に同じ船で函館に行き、ロシア正教会のニコライの日本語教師として滞在する。

アメリカ渡航と帰国

同年6月、新島は函館港に停泊中の船に乗りこみ、当時禁じられていた国外への密航を企てた。これは閉塞する状況への不満と自由への憧れ、本で読んだ米国の様子に影響を受けたといわれている。上海で別の船に移り、船長から「ジョー」と呼ばれた。翌年7月、米国ボストンに到着した新島は、船主ハーディー夫妻に会う機会を得た。出国の経緯を書いた英文に心を動かされた夫妻に招かれハーディー家の一員となる。その庇護の下、学校に通い、教会で洗礼を受け、アーモスト大学を卒業し、アンドーヴァー神学校に入学できた。いずれの学校もハーディーが要職を務めていた。その後も新島はハーディーから経済的支援を受け続けており、同夫妻との出会いが彼の進む道を拓いたといえる。明治4(1871)年、駐米公使館にいた森有礼の斡旋により日本政府から旅券と留学免許状が交付され、新島は密航者から正式な留学生となった。翌年、米国を訪問した岩倉使節団の通訳を依頼された際、文部省の田中不二麿に気に入られ、三等書記官として欧州諸国の教育を視察する貴重な経験をしている。その後、開拓使に採用予定だったが、留学延長を申し出て政府から学費を支給されている。

米国最古の布教組織アメリカン・ボードの準宣教師に任命された新島は、明治7(1874)年、10年ぶりに祖国の土を踏み、「新島襄」と名のり始める。これは帰国であると同時に、米国からの宣教師派遣でもあった。

帰国後、キリスト教主義にもとづく学校新設に向けて動き始め、先輩の宣教師が拠点としていた関西に移る。京都府顧問山本覚馬と意気投合し、京都で学校を開くよう勧められ、学校敷地として薩摩藩旧屋敷跡を譲り受け、新島も山本宅に転居した。11月には晴れて同志社英学校を開学することができた。明治9(1876)年1月、新島は覚馬の妹八重と結婚した。9月、「熊本バンド」と呼ばれる熊本洋学校出身の学生約40人が同志社に入学し、新風を吹き込む。この頃、自宅に教会を設立し、明治12年に初の卒業式を行った後、宣教師として伝道旅行に出発した。このように新島には教育者(校長)と宗教者(牧師、伝道)という複数の顔があった。

同志社の発展と新島の死

さて初期同志社では、何かと他の学生や教師に反発していた熊本バンドの学生が、クラス合併の話が出るとストライキ(無断欠席)を敢行し、それを上から押さえつけようとした教師との間に対立が生じた。学生を処分することに決まった後、思いあまった新島は同志社の責任は校長の責任と語り、家から持ってきた木の枝で自らの手を打ちつける「自責の鞭(杖)」事件が発生した(折れた枝は現在も同志社大学に保存されている)。しかし、事件後も問題は残り、徳富蘇峰ら熊本バンドの学生たちが退学する事態になる。

その後、同志社は学校として軌道に乗り、系列校も生徒数も増えていった。明治17年4月、保養のため欧米旅行に出発するが、スイスで登山中に呼吸困難に陥る。回復後、アメリカン・ボードから大学設立のため5万ドルの寄付を受け帰国。20(1887)年には二派の教会の合同問題が発生し、海老名弾正や小崎弘道ら熊本バンド・同志社出身のキリスト者は賛成を表明するが、新島は教会の自治を重視し、対立をなだめつつも反対に回った。

この年は恩人ハーディーと父を続けて喪うという不運にも見舞われ、新島は心労を募らせた。翌年、蘇峰の『国民之友』が大学新設や新島について宣伝を開始し、蘇峰らの人脈を生かし各界の名士を集めては協力を求めた。しかし、新島は脳貧血で再び倒れ、医者から心臓肥大で余命が長くないと告げられる。それでも新島は関東に募金活動のため赴いたが、群馬で激しい胃腸炎に襲われ東京に戻り、その後は大磯で療養した。明治23(1890)年1月、病状が悪化し危篤状態に陥った。八重夫人、蘇峰、小崎に同志社の将来に関する遺言を伝え、23日、新島は議会開設も同志社大学も見ることなく、急性腹膜炎症により46歳の若さで永眠した。福澤の『時事新報』は新島への追悼文を掲載し、その死を悼んだ。

新島襄を悼む『時事新報』社説(明治23 年1 月26 日) (福澤研究センター蔵)
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