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【福澤諭吉をめぐる人々】
高橋誠一郎

2020/12/22

留学と結核

高橋は、卒業後、理財科教授気賀勘重の誘いを受け、助手として塾内に残ることになる。「一番、暇を楽しむことのできる仕事につきたい」と考えていた高橋は「それなら学校に残るにかぎる」との気賀の答えを受け、塾出身の伊藤欽亮が経営する新聞『日本』からの誘いや、理財科主任堀江帰一からの『時事新報』入りの勧めを断り、その後約70年続く教員生活をスタートさせた。また、助手となり5カ月も経たない中、高橋は、鎌田栄吉塾長以下、田中萃一郎(すいいちろう)、福田徳三、川合貞一らの高橋にとり「恩師」たちと共に慶應義塾のモラルコードである『修身要領』の普及徹底をはかる地方巡回講演の一行に参加している。福澤の死後もこの普及活動が重んじられていたことが分かる。

明治44年、西洋諸国への留学の命を受けた高橋は、鎌田塾長から「研究の必要上、ドイツへ行くのもフランスへ行くのも、もとより反対ではないが、その前にぜひとも1年なり半年なり、まずイギリスに滞在して、アングロ・サクソン流の紳士になることを勧告する」と言われ渡英する。留学中は、学生として大学に通うことはせず大英博物館や、ゴールドスミス図書館で開館から閉館まで書物を読み、夜は下宿先でドイツ語の経済書を勉強も兼ねて翻訳をしながら過ごしていた。しかし高橋は約半年後、当時の不治の病、結核に罹患する。異国の地にて高熱と血痰に悩まされ、現地のナーシングホームで約2カ月、サナトリウムで約6カ月と、留学期間の過半を療養に費すこととなった。シベリア周りの陸路を使い帰国したのは、大正元年である。

帰国後は、2年ほど療養した後に堀江帰一の勧めで再び母校の教壇に立ち、大正4年に理財科教授に就任した。太平洋戦争中には、定年前ながらも塾の財政難から、名誉教授にさせられたものの、講師として経済原論や経済学史などを担当し、塾内における経済学研究の礎を築く。代表作である『経済学前史』(昭和4年)や『重商主義経済学説研究』(昭和7年)などは経済学の古典としての名が高い。

水泳部時代の高橋(前列中央)。その後ろが名取和作。(福澤研究センター蔵)

2つの大役

戦前、高橋は図書館長を除き塾の経営にはほぼ携わることがなかったが、戦後は、空襲で大火傷を負った小泉信三の代理として、昭和21年、塾長代理を務めることになる。首相をはじめ各大臣、そしてGHQ司令部を歴訪し、塾の窮状を訴えるなど在職9カ月間ながら戦後復興の責務を果たした。

戦後、政府内では天皇と国民の新しい関係の在り方が模索されていたが、時の総理大臣吉田茂が注目したのが福澤諭吉の『帝室論』であった。親戚で主治医でもあった武見太郎から示された『帝室論』を読んだ吉田は、高橋に文部大臣を懇請したのであった。

はじめは就任を固辞した高橋だが、この機会を慶應義塾が長年主張してきた「独立自尊主義の教育が実際に施さるべき時期の到来」であると捉え、受諾に至る。自由党が次の選挙に敗れたことにより高橋の在任期間はわずか4カ月であったが、在任中、「教育は、人格の完成をめざし」の第一条からはじまる教育基本法の法案が議会へ提出されると、高橋は「『修身要領』に盛られている独立自尊主義の新教育が、いよいよ、全国的に施行されようとする秋がきた」と感慨を覚えたという。戦後復興の乏しい予算の中、6・3・3・4制を含めた教育基本法の可決は困難を極めていた。しかし、高橋は巧みなバランス感覚によりその調整を成功させる。これは大臣任期中としての大きな功績であった。その他にも私学の地位の確立に尽力するなど、冒頭の就任演説の通りに短期間ながらも理想を全うした。奇しくも高橋大臣として迎えた最後の日の公務は、母校慶應義塾の創立90年式典にて文部大臣としての祝辞となった。

戯れ去り戯れ来り

高橋は、父の書画骨董集めの影響もあり、幼いころから錦絵に関心を寄せていた。その浮世絵の蒐集は趣味の領域を越え、研究としても日本屈指の水準となり、後には、浮世絵協会の理事長まで務めることとなる。慶應義塾でも創立150年記念には、「高橋誠一郎コレクション浮世絵名品展」を開催している。また、浮世絵に留まらず、歌舞伎をはじめ芸術全般にわたる深い造詣、その文化的見識の深さから、文化財保護委員会の委員長、国立博物館館長、舞踊協会会長、映倫の委員長、文楽協会の理事長、国立劇場の理事長など数々の要職を務めている。さらに、1923年より東京女子大学で経済学の講義を担当し、戦後にはじまる塾に先駆けて女子教育にも携わった。また、本誌『三田評論』には、昭和37年から10年以上に亘り「エピメーテウス」と題した随筆を連載。自身の経験を記し、塾の気風継承に貢献した。中でも塾に関わるものを『随筆慶應義塾(正・続)』として刊行している。

「戯去戯来自有真(戯れ去り戯れ来り、おのずから真あり)」。これは福澤諭吉の言葉の中で高橋が、「最も多く思い出される」とした一語である。高橋は、この言葉を「先生は凡俗の間に雑居して、ともに俗界の俗事に従事しながらも、心事はすなわち一段の高処に構え、ひとり俗界の塵を断って、ひとしくうき世の戯れを戯れながらも、時に、醒覚して戯れの戯れであることを悟ろうと望んでおられたのである」(『回想九十年』)と解釈している。高橋が住む大磯の王城山荘には多くの人が訪れた。時には学問の話、時には文化芸術の話に花を咲かせた。若い頃から病弱であり、異国の地では生死の境を彷徨いながらも、ユーモアに溢れた高橋の97年に及ぶ一生は正に「人生を戯れと認めながら、その戯れを本気に勤め」たといえるものであった。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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