三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
高橋誠一郎

2020/12/22

三田山上にて
  • 小山 太輝(こやま たいき)

    慶應義塾幼稚舎教諭

高橋誠一郎は、慶應義塾にとって、大きな意味を持つ存在であった。戦後の塾長代理としての役割はもちろん、昭和53年の最終講義までの約70年間に亘り、塾内にて経済学の講義を受け持ち、福澤諭吉の晩年に薫陶を受けた最後の1人としてその気風の源であり続けた功績は筆舌に尽くしがたい。

また、日本芸術院院長や、交詢社理事長、東京国立博物館長、文化財保護委員長をはじめ、列挙しきれないほどの顕職を歴任した文化芸術振興の支柱的存在であった。

昭和22年には、第1次吉田内閣の文部大臣も務めている。以下は、その就任時の演説の一節である。

「私どもは、自己の力によって自己を救う道を学ばなければなりません。完全な個人の発達は、やがてまた、社会における個人の地位を完全に満たさせる所以であります。個人が自己を知り、自己を尊重し、自己を注意するによって、各自互に相信じ、相和する人と人との温い結合が成立するのです。そうして、個人の自覚がいよいよ深くなっていくにつれ、その結合の範囲はますます拡大し、人の人たる品位は無限に高尚微妙の境地に進入し、億兆の人々相提携して、円満無欠の理想郷を現出するに至るべきであります。(中略)完全に個人を発達させることは、すなわち独立自尊の人を造ることです。われわれが完全に独立自尊の人となり、理性が完全に人間の行為を決定する時、やがてまた真理の平和的勢力によって、至善至福の世界は、この世に確立されるべきであります。かくて、真理の探究はまた、教育本来の目的でなければなりません」。

福澤諭吉と塾の気風

高橋誠一郎は、新潟の豪商「津軽屋」の1人息子として明治17(1884)年に生まれる。父・昌吉(しげきち)は既に傾きかけていたこの廻船問屋の一切を整理し、祖父の頃から親交のあった、吉田茂の養父、吉田健三の知恵を受け、横浜での商いに挑戦する。母子が新潟から上京したのは、誠一郎4歳の時であった。

昌吉は慶應義塾の出身ではなかったが、時事新報を通じて福澤の崇拝者であった。また、慶應義塾が体育の奨励に熱心なことを聞き、生まれつき病弱な一人息子の教育を託すべく幼稚舎の寄宿舎に入れようと考えていた。しかし、子を心配する母の寂しい様子もあってか、入学時期を逸し、高等3年まで横浜の老松学校に通い、明治31年に慶應義塾の普通科に入学する。

高橋が初めて福澤を目にしたのは、入学の年、三田演説会で行われた「法律と時勢」という演説であった。高橋は、福澤の演説の様子を「能弁ではあるが、決して雄弁ではなかった」と振り返る。高橋が聴講したこの講話の2日後、福澤は脳溢血で倒れることとなる。奇しくも、これが福澤最後の演説会の講話となった。大病後の福澤は散歩を日課とした。高橋はこの散歩のお供を通し福澤と親交を深める。次第に福澤の好意で、同家の書庫へ一人で入り込み、自由に書籍を取り出し、読みふけることを許される。福澤は、時おり「何かおもしろいものが見つかったか」と声を掛けたり、高橋の体が細いことを気にして「弓を引け」と勧めたりするなど、高橋を気に掛けた。

明治34年、福澤はこの世を去る。高橋は「年少魯鈍の悲しさ、ほとんど毎日、この明治の偉人に近づき、その謦咳に接しながら、つねに曇々たる言笑を聴くのみで、その思想の一端をすら把握しようとすることがなくて終わった」(『回想九十年』)と振り返り惜しんでいる。そんな高橋が、後に福澤研究に力を入れるようになるのは、昭和7年に改造社から『偉人伝全集』中の一冊として福澤先生伝の執筆を依頼されたときからであった。この一冊は、福澤の生涯を丁寧に追うと共に経済学的な観点から分析を加え、福澤研究に新しい捉え方を示した一著である。

福澤死後の慶應義塾は、「独立自尊にかびが生えた」と歌って揶揄されるほど学生の目からは、「いささか気くずれの状態」に陥り、「見ようによっては、最も時代におくれた学校」との観があったようだ。「これではならない」という機運が漲る中、高橋は友人たちに推し立てられ、塾内学会の幹事、体育会の役員、消費組合の理事長、寄宿舎の寮長などを歴任した。高橋は、塾長をはじめ学校当局に対し、早慶戦中止に対する抗議など、いく度も議論を吹きかけ怒りを買っていた。特に、編輯員を務めた学生雑誌『三田評論』(現「三田評論」ではなく現「三田学会雑誌」)内での言論活動は、塾執行部の体制そのものへの過激な批判にまで及ぶ激しさであった。また、水泳部を創設し、ほぼ毎年夏の葉山へ水泳に出掛けるなど幅広く塾生生活を謳歌した。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事