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【福澤諭吉をめぐる人々】
西野恵之助

2020/11/27

木下立安編『拾年記念日本 の鐵道論』(1909)より
  • 坂戸 宏太(さかと こうた)

    慶應義塾横浜初等部教諭

急行列車、車内電灯、食堂車、寝台車、手回り荷物の運搬、鉄道直営駅構内ホテル。これらは、山陽鐵道株式会社(現JR山陽本線を敷設、開業)により、日本で初めて提供された。こうしたサービスは、鉄道輸送の礎を築き、その幾つかは普及・定着したものである。この実現に貢献した中心人物の1人が、同社で運輸課長を務めた西野恵之助(にしのけいのすけ)である。西野は、慶應義塾で学び、山陽鐡道、帝国劇場、東京海上保険、白木屋呉服店、日本航空輸送を実質的な経営者として渡った実業家である。本稿では、山陽鐡道での活躍を中心に見ていく。

生い立ち

西野恵之助は、元治元(1864)年8月に山城国相楽郡稲田村(現京都府相楽郡精華町)に、藤田茂三郎の次男として生を受けた。家業は農家で、祖父は農具の改良や米穀の販売に熱心で村の庄屋となり、父は意志が強く常識が豊かゆえ、村で起きた訴訟や公事を処理して村人から尊敬されていたという。

対する小学校時代の恵之助は、平凡な少年であった。8歳で母を亡くし、温和な継母に三兄弟で反抗したことを、終生後悔していると後で振り返っている。京都府立京都中学校には、補欠かつ最後で入学し、その喜びで奮発して勉強し、最優等で卒業した。

塾生時代

明治17(1884)年、慶應義塾に入学した。同年、親戚にあたる西野りうの養子となり、翌々年に西野家を相続した。塾生の西野は大変優秀であった。福澤が毎週土曜日に塾生たちを招いて談話(土曜会と称した)した中にも西野が含まれており、明治18年6月26日には、西野の他に伊吹(藤山)雷太の名が確認できる。2人は親しい間柄にあり、藤山が帝国劇場発起人や東洋製鐵取締役を務めた同時期に西野も在籍したほか、西野が帝国劇場時代に居を構えた白金は、至近に藤山邸があった。明治20(1887)年4月、慶應義塾本科を卒業、福澤が演説中に「人間は気品が高くなくてはならない」と説き、自ら率先して塾生に敬語を使用していたことを在籍中の忘れがたき教訓として挙げた。

山陽鐵道へ入社

山陽鐵道会社は、神戸〜下関間の鉄道敷設を第1の目的として創設された。その源流は、明治9(1876)年に兵庫県官の村野山人(さんじん)が説いた神戸〜姫路間鉄道建設構想にまで遡る。この話は、明治18年、内海忠勝が兵庫県知事に就任して村野から耳にしたことにより具体化した。内海は翌19年に県内の有力者を集め、県外から藤田伝三郎、原六郎(横浜正金銀行頭取)、荘田平五郎(塾員)を加えた。同年12月に第1回発起人会を開き、敷設申請を内海へ提出した。明治20年4月、荘田と原は、時事新報社長の中上川彦次郎(塾員)を創立委員総代(会社発足時に社長就任)として招いた。同月、福澤諭吉は、義塾卒業を控えた西野を中上川へ紹介した。

こうして西野は、中上川が採用した慶應義塾の卒業生10名の1人として開業前の山陽鐵道へ入社した。当初は、業務習熟のために官設鉄道に派遣され、新橋や横浜で見習をした。塾員の入社はこれ以後も続き、明治22年には、福澤捨次郎が米国留学を終えて間もなく山陽鐵道入りした。

鉄道の建設は、中上川の理念が色濃く反映され、当時としては驚異的な高規格路線として整備され、要件を充足する車両・技術を英米から積極的に導入した。その目的は、日本の主要幹線を成す必要性、速達性の確保とサービスの向上であったが、真意は四国・九州連絡を含めた瀬戸内海航路との競争力確保にあった。明治21年1月、私設鉄道条例の下で初の免許が下付され、同年11月に兵庫〜明石間が開業した。以降、西へ延伸を繰り返すが、その道は順風満帆ではなく、明治23年恐慌や内航海運との厳しい競争に晒された。そして未開業区間の建設費を捻出するため、購入間もない車両を売却、社員の解雇に及び、やがて中上川は社長職を辞すこととなった。

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