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【福澤諭吉をめぐる人々】
尾崎行雄

2020/09/04

尾崎の福澤評

若い頃の尾崎は福澤を含め身近な教師や大人に対して反抗的態度をとっており、福澤のことも理解しようとしなかった。しかし、大成してからはそれを反省し、福澤を非常に高く評価した。尾崎にとって福澤は「第一維新前後に産まれた最大人物」で、「先生の右に出づるものは一人もない」とまで書いている(『尾崎咢堂全集』12)。ただし、「偽悪者」であり、敢えて世間から非難されることを言ったり、見せびらかしたりするところがあるとも見ている。例えば、日頃は「いはれなく他人に金銭をやるものは馬鹿だ」と言っていたが、困っている人には金銭的援助を惜しまなかった。

尾崎についても、福澤は政治も大事だが生活も大事だと妻子のことを心配し、不憫だと年末に50円を贈ったこともあった。のちに保安条例で追放された尾崎が欧米に留学したときも、福澤は残された尾崎の家族を自宅の園遊会に呼ぶなど気にかけ、米国在住の塾員が日本人会に尾崎を招待したときの様子を『時事新報』に通信したところ、記事を読んだ福澤は非常に喜び感謝の手紙を送った(『福沢諭吉伝』4)。

また、尾崎の見る福澤は人物を見抜く力に優れていた。例えば、勉強や物事の理解が遅い門下生が進路を相談したところ、福澤は歯科医になることを勧めた。すると他に歯科医がいない時代だったこともあり、非常に繁盛し成功することができた。

尾崎が新潟新聞の主筆になれたのも、コレラで急死した古渡資秀(慶應出身)の後任として文筆を見込んだ福澤が推薦したことによる。福澤は社主鈴木長蔵に事細かに尾崎の特徴とその待遇方法を伝えていた。

その後の活躍

その後、新潟時代の著書『尚武論』を読んだ矢野文雄の誘いにより、明治14(1881)年、統計院権少書記官に任命された。ところが、明治14年の政変で大隈重信が参議を辞めると、大隈・慶應系の矢野らとともに尾崎も辞任した。その後は『郵便報知新聞』記者となり、立憲改進党結成に参加した。大同団結運動では、改進党系と自由党系を結びつける中心的役割を果たしたが、放言が原因で保安条例により3年間東京から追放されたため、欧米に留学した。自分が追放対象になると思っていなかった尾崎は、このときの驚愕から号「学堂」を「愕堂」と改め、その後「咢堂」とした。

23(1890)年の第1回衆議院議員選挙では三重の選挙区で当選し、以後25回連続当選を果たした。三重は少年期を過ごした場所で父の知己が多く、行雄が不在の選挙でも熱心に運動する強固な支持層が形成された。29年、大隈が入閣した第2次松方内閣(松隈内閣)で外務省参事官、31年に成立した第1次大隈内閣(隈板内閣)では文部大臣に就任したが、「共和演説」事件で引責辞任し、内閣も倒れた。33年、伊藤博文がつくった立憲政友会に参加し、翌年は院内総務として第1次桂内閣を攻撃した。36年には伊藤が政府と妥協したことで政友会を離脱し、東京市長に推され就任。在任中、米国ワシントンに桜の苗を贈ったことはよく知られている。

37年、新潟時代に結婚した繁子夫人が亡くなり、翌年、法制官僚尾崎三良の娘テオドラ(日本名・英子)と再婚した。テオドラは福澤がその境遇に同情し幼稚舎の英語教師として雇ったこともあり、尾崎を教えた英語教師ショーの夫人が世話したこともあった。2人の出会いはテオドラ宛の手紙が誤って同姓の尾崎行雄宅に届けられたため行雄がテオドラに届けたことがきっかけであった。

その後、憲政擁護運動で活躍し、大正3(1914)年、第2次大隈内閣で司法大臣に就任。憲政会結成に加わり筆頭総務となる。普通選挙運動で活躍するも、普選法憲政会案に反対したため除名され、その後は無所属で通す。昭和17(1942)年、翼賛選挙を批判し、非推薦で当選。敗戦後、世界連邦建設を目指す運動を開始。28年、第26回総選挙で初の落選。病気療養中に慶應の学生が見舞いに訪れ、塾歌を歌って尾崎を励まし、尾崎も終始機嫌が良かったという(『咢堂尾崎行雄』)。翌29(1954)年10月6日、逗子の風雲閣で死去した(95歳)。

死後も尾崎を讃える動きは絶えず、昭和35(1960)年、尾崎記念会館が永田町に建設され、衆議院に寄贈された。その後、会館は憲政記念館となり、現在に至っている。縁ある神奈川県相模原市と三重県伊勢市には尾崎咢堂記念館がある。また、尾崎が妻テオドラのために麻布に建てた洋館は、世田谷区豪徳寺に移築された後、アパートとして貸し出された。近年、その洋館の取り壊しが取り沙汰され、保存運動が起きている。

尾崎咢堂記念館(伊勢市)[撮影  加藤三明]

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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