三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
平沼亮三

2020/06/29

スポーツのデパートメントストア

「平沼はスポーツのデパートメントストアだ。ただし10銭均一、品数は多いが、上等のものはない」と口の悪い友人は言っていた。平沼も、「あまりやたらにやったものだから、どうしても1つのものに上達しない。間口ばかり広く奥行きは狭い。これはスポーツマンとしていいことだともいえまいが、過渡期の時代には、私のような者があって結局、運動の奨励になるのではないかと思う」と、これを認めていた。あらゆるスポーツに挑戦した平沼だが、「何が一番好きかと聞かれれば相撲と答えたい」と言うほど、相撲には熱心に取り組んだ。「専門的に正式に練習したのは野球」で、正選手になると相撲や柔道はやめて野球一筋となった。

家業を手伝うため、新制の大学部に1年半ほど通ったところで三田を離れることになった平沼だが、後に地方議会や国会の議席に座り、多くの企業の取締役に就任しても、彼の情熱はスポーツに向けられ、義塾のスポーツとともにあった。平沼の自慢の1つに、卒業後、運動会の塾員レースに13回連勝というのがある。また義塾野球部が横浜の外国人野球クラブと対戦した時もOBとして参加した。30対1で大敗した試合で、平沼は2、3塁間に挟まれ、相手選手の股を潜り抜けて3塁ベースにタッチした。しかし、審判は球を持っている選手の下を潜ったらアウトだと宣告したという。更に、野球部の第2回アメリカ遠征には、平沼が総監督となって各地を転戦し、14勝15敗2分けという成績で帰国した。

富豪の家に生まれ、「スポオツの中に生活するというような生活」(小泉信三)を送り、笑い話が大好きでユーモアを絶やさなかった平沼は、順風で幸福に満ちた人生を送ったように見える。それでも悲嘆にくれる一時期もあった。日露戦争の最中には、出征兵士を見送る平沼駅で転落事故により母を失い、関東大震災のときには、妻婦美と多くの子は庭に飛び出したものの、幼い4女、4男は建物の下敷きになってしまった。

平沼は、愛児との思い出が詰まった平沼町を離れ、横浜市の沢渡に洋館を建てて引っ越した。3千坪に及ぶ敷地に、テニスコートや野球場、道場などの運動施設を自ら図面を引いて設計した。例えば家の廊下にある鉄棒は、大車輪ができるように、その部分だけ天井を高くするなどの仕掛けを考えた。相撲場は平沼部屋と呼ばれ、実業家や政治家に交じり逆鉾や玉椿などの力士も泊りがけで稽古に来た。毎日のように訪れる客人は、好きなスポーツを好きなだけやる。そのために運動用のシャツや靴が無数に用意され、運動後にはチカ手製の「スポーツライス」が振る舞われた。カレーライスに下駄のように大きい豚カツをのせた「スポーツライス」は、度々平沼邸を訪れた、「スポーツの宮様」秩父宮殿下にも好評であった。小泉信三も、9歳年長の平沼の家に数多く遊びに行った1人である。「正月二日の会」は、小泉など義塾の運動部出身者が平沼邸に集まるもので、スポーツをやって風呂に入り、食事をするのが毎年の恒例となっていた。

仲の良い逆鉾との間には、逸話がある。大事な予定があると言う逆鉾を必ず横浜駅まで送るからと、無理に引き止め神奈川で1杯飲んでいたときのことである。時間になり外に出ると、待たせていた車夫が見当たらない。平沼は「約束だから僕が曳く」と、人力車に逆鉾を乗せて駅まで走り、ぎりぎり間に合った。平沼は汗びっしょりだが、逆鉾も冷や冷やで「乗っていて旦那より汗びっしょりだ」と言ったという。

スポーツ生活60年

選手からの信頼が厚かった平沼は、オリンピックや極東選手権大会の日本選手団団長となって、選手を率い、各地の大会に臨んだ。平沼家から義塾に寄贈されたアルバムには、船上で練習に励む選手とともに、体を動かす平沼の姿が残されている。そして念願であった第12回オリンピック大会の東京開催に向けて準備や建設が進行していた矢先、政府は日中戦争の拡大により、開催返上を決定する。更に次点のヘルシンキでの開催もドイツのポーランド侵攻により中止となってしまった。

平沼は、昭和18(1943)年に、自身の半生を振り返る『スポーツ生活六十年』を出版した。戦時中、外来語は敵性語とみなされたが、批判を承知であえて「スポーツ」という言葉にこだわった。平沼は、その理由を序文において「要は形式ではない、精神である。スポーツの精神、それをしっかり把握することだ。言葉や経緯などは、末梢のことではないかと考えている」と書いた。運動だけではなく、その精神までも含めたものがスポーツであり、これに代わる言葉はないという強い思いを込めたのだった。小泉は同著に寄せた序文で、この精神を「快活晴朗公正無私」と表現し、平沼自身がそれを日常実践していると述べている。

戦後の平沼は、公職追放の解除後、8年間、生まれ育った横浜の市長を務めた。その間、懸案であった米軍からの接収解除問題は徐々に進捗を見せ、山下ふ頭の新設、三ツ沢競技場の建設など、横浜の将来の発展に寄与する事業が進んだ。そして平沼の晴れ舞台は、昭和30年の秋に訪れた。第10回国民体育大会の開会式が昭和天皇、皇后両陛下をお迎えし、4万の観衆が見守る中、三ツ沢競技場で開催された。誰にも知らされていなかった炬火リレーの最終ランナーは、白鉢巻きに白パンツ姿の「快活で楽天的な、永遠の青年」(小泉信三)、76歳の横浜市長であった。「スポーツの父」と呼ばれた平沼が松明片手にトラックを半周し56段の石段を駆け上がって炬火台に点火すると、場内は総立ちとなり、割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。天皇陛下は、翌年の新年歌会で、「松の火を かざして走る老人(おいびと)のををしき姿見まもりにけり」と歌を詠まれている。

平沼は、国体の閉会式の日に、スポーツ界では初めて文化勲章を受章した。文化勲章の年金は市に寄贈され、その資金を基に、後年、炬火を掲げて走る姿の「平沼さんの像」が見据える三ツ沢公園の入口に平沼記念体育館が建設された。また、同じく年金の寄贈を受けた慶應義塾では、これを動機に日吉の体育館建設が進められた。

「死ぬまでハマのために働きたい」と言っていた平沼は、昭和34年2月、2期目の市長任期満了を目前に永眠した。まさに「独立自尊と体育に心を用い」た生涯であった。市葬から2カ月後、平沼の肖像を掲げて日吉体育館の落成式が執り行われた。また、日吉の陸上競技場にある平沼の胸像は、彼が関わった多くのスポーツ団体から喜寿の祝いに贈られたものである。その祝賀会の席上、「見ることができたら、これ以上の喜びはありません」と挨拶し、平沼が待望していた東京オリンピックは、昭和39年に開催された。

それから56年。2度目の東京オリンピックは、新型コロナウイルス感染症の世界的な拡大のため、本年7月の開会予定が1年延期となった。「平和の祭典」と呼ばれるオリンピックがウイルスとの戦いを克服して、来年開催されることを願わずにはいられない。

日吉陸上競技場を見守る平沼像 (2012 年撮影)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事