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【福澤諭吉をめぐる人々】
平沼亮三

2020/06/29

昭和14年9月2日 東京六大学秋季リーグ戦始球式 明治神宮野球場
福澤研究セン ター蔵(平沼家寄贈)
  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

東京での次回オリンピック開催が正式に決定した。これを受け、開催中のオリンピック閉会式では、日本オリンピック委員会の代表者が壇上に立って日本語で挨拶した。「日本オリンピック委員会は、第12回オリンピアードの祝典を東京において開催するの光栄を有す。全世界の青年諸君、来たれ、東京オリンピック大会に」。日本選手団の団長でもある平沼亮三(ひらぬまりょうぞう)のスピーチがドイツ語に訳されると、拍手とともに「トウキョウ、トウキョウ」の声がベルリンの大競技場に響き渡った。

独立自尊と体育に心を用いる

平沼亮三は、明治12(1879)年に横浜の平沼町に生まれた。平沼の祖父5代目九兵衛(きゅうべえ)は、商人として成功し、神奈川湾の入り江を埋め立てて平沼新田と呼ばれる一帯を開拓した。安政6(1859)年には、未開の地であった横浜村が開港し、東海道から平沼新田を通り横浜港を結ぶ横浜道(よこはまみち)が3カ月の突貫工事で開港前日に開通した。江戸に蘭学塾を開いた福澤諭吉が、語学力を試しに開港間もない横浜を訪れた時も、この横浜道を通ったであろう。

10歳になった平沼は、慶應義塾の幼稚舎に入学し、ほどなく入った三田の寄宿舎での生活が性に合ったようで、みるみる逞しく成長していった。三田の山には相撲の土俵や鉄棒、棒高跳びの砂場などがあり、平沼は勉強よりも運動や遊びに熱心だった。庭の木の上で鬼ごっこをするのは禁止されていたが、見つかって木から引きずり降ろされても、大人がいなくなると、また木に登って遊んでいた。

平沼は、幼稚舎4年生のとき鉄の棒で突かれて目の下に大きなあざを作った。日曜日に実家に帰ると、女中のチカがあざに驚き、心配の余り色々と問いただす。不機嫌になった平沼が雑誌を投げつけると、それがチカの顔面に当たり、チカは鼻血を出して慌てて部屋を出て行った。その姿を見送った平沼は自分のしたことに深く後悔した。この経験以来、平沼は、目下の人に威張るようなことをしてはいけない、人に対して優しく穏やかであろうと肝に銘じ、その柔和な人柄を作っていった。

幼稚舎時代、平沼と同級であった長与又郎(ながよまたお)(後に医学博士、東京帝国大学総長)は、後年、当時の成績表を見ると、実は自分が4番で平沼は3番であったと明かし、「(平沼は)運動と暴れることにおいては群を抜いていたことをよく存じている。平沼君は球投げが得意で、よく一緒に球ぶつけをしたものだ」と述懐している。平沼は、よく幼稚舎の思い出を語り、同窓会にも喜んで出席した。「幼稚舎同窓会報」の題字は今日も平沼筆になるもので、平沼自身もそれを名誉にしていた。

平沼の寄宿舎生活は幼稚舎卒業後も続いた。同時期、福澤諭吉は晩年を迎えていたが、時々、平沼が柔道に励む道場にも顔を出していた。同じ三田の山に住んでいれば、顔を見かけ、声を聴く。福澤の精神は、自然と平沼に伝わったに違いない。平沼は、福澤から最も学ぶべき点として「独立自尊と体育に心を用いられたる事」を挙げている。そして米を搗つく度に、「お前たちは国に帰ったら国の年寄たちの方位方角とかおまじないなどの迷信を説破するに努めよ。また一代のうちに是非世の利益になる大発明をせよ、さもなくば大いに金を儲けて発明家を保護して大発明をさせてやれ」と聞かされたと回想し、平沼特有のユーモアで、自分は「今に発明も出来ねば金も儲からず」(以上『福翁訓話』)と付け加えている。

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