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【福澤諭吉をめぐる人々】
富田正文

2020/05/30

福澤学の専攻学者

富田は大正15年に英文科を卒業した後も嘱託として編纂を続け、昭和6(1931)年4月には義塾の職員となった。以後『続福澤全集』7巻(1932~4、大正版『福澤全集』の続編)の編纂に当たる一方『慶應義塾75年史』(1932)1冊をほぼ独力で書き上げるなど、老齢の石河が退いた後、福澤の著作と義塾の歴史に関わる仕事の多くを任されるようになった。

折しも震災後の日本では明治史を回顧研究する動きが盛んであった。福澤の著作や詳細な伝記が出たことは、世の福澤への関心を喚起し、昭和10年ごろには「福澤ルネサンス」というような状況が到来した。このような時代、義塾には問い合わせや持ち込まれる資料が増え、それらを一手に扱う富田は、 塾内外の人々から貴重視された。

中でも昭和8年から21年まで塾長を務めた小泉信三は、とくに富田の人と学問を愛し、彼を支えた1人である。職員としての富田は『三田評論』を編集し、庶務課・塾員課主任や総務課長として働き、小泉が用いるさまざまな文章の起草にも当たった。小泉は昭和13年度から自身の担当科目という名目で大学に「明治文化史」の講座を置き、塾生が職員である富田から福澤と塾史を学べるようにもした。

戦時、福澤を自由主義者と攻撃する者もある中、富田はそれまでに発表した文を『福澤諭吉襍攷(ざっこう)』(1942)と題する1冊にまとめた。小泉はそこに序文を寄せてこのように言っている。

福澤学といふ名称はまだ一般に通用してゐないが、假(か)りに此(この)学問が成り立つものとして、さうして今日其(こんにちそ)の専攻学者は誰々であるかといへば、吾々(われわれ)は先(ま)づ指を本書の著者富田正文氏に屈しなければならぬ。

福澤学の、第1に指を屈すべき専攻学者──それは富田を形容するのに最も相応しい言葉であったと思われる。

『福澤諭吉全集』の完成

以後福澤学者としての富田の仕事は平成5(1993)年8月27日に95歳で亡くなる間際まで続けられた。その中で最大の仕事は、今なお底本典拠として用いられる『福澤諭吉全集』全21巻(1958~64、別巻1971、岩波書店)の編纂であろう。

戦後になって、多くの新資料が発見されたことで、岩波書店は新たな福澤の著作選集・全集の刊行を企画した。新設された慶應通信株式会社(現慶應義塾大学出版会)の運営に当たっていた富田は、それまでに蓄えた経験と学問を注いで、この著作集の主編者として多忙な日々を送ることになった。

全集の編纂は小泉の監修と土橋俊一(つちはししゅんいち)の補佐を得て始められたが、その後も多く新資料が発見されたことで、全巻を出すまでに10年以上を費やした。この間富田は、原稿の校合、厳密な考証、それを踏まえた周到な注釈の執筆などを弛まず続け、昭和39年、65歳の時、ついにこれを完成した。

慶應義塾創立100年記念事業の1つとなったこの新たな全集の完成は、世間にも喜びを以て受け入れられた。義塾は同年、この難事業を全うした富田に日本人として初めて慶應義塾大学名誉博士の称号を授与、また日本学士院は翌年、この全集の編纂校訂註解の業績に対して日本学士院賞を授与した。

ただし、全集の校訂や補足修正、考証はその後も丹念に、精力的に続けられた。富田が手許に置いた全集に残る多くの付箋と詳細な書き込みは、それをよく伝える証左である(写真)。

なおまた、石河幹明の「傳」を継ぐ「富田の福澤伝」を望む声も多くあった。その1人でもあった土橋の提案で『三田評論』誌上に富田による「考証福澤諭吉」の連載が始まったのは昭和53年5月、それは89歳となった62年10月の80回まで続き、亡くなる前年、『考証福澤諭吉』上下二巻(1992)として出版された。それは70年間、1本の長い道を歩き続けた学者の、生涯の集大成であった。

付箋と書き込みの残る『福澤諭 吉全集』(慶應義塾大学出版会蔵)

温かい人、文の人

富田について、ここで触れておきたいことがまだ2つある。

その第1は、その無私で飾らぬ深切な人柄のことだ。私は学生時代、丸山眞男、芳賀徹(はがとおる)といった人たちが異口同音に、富田先生にお世話になったと語るのをよく聞いた。学生団体の福澤先生研究会では会長として、三田新聞学会では副会長や『三田新聞』の主幹として、それらの運営に力を発揮する一方、長く学生の面倒を見て、師のような長兄のような存在であり続けた。

塾内外の学者や後進を励ます温かい人柄は、彼がとくに若い読者を念頭に注を施した『福翁自伝』にまで及んでいる。一緒に暮らした孫たちによると、家庭ではごく普通のおじいさんだった、電話の応対はぶっきらぼうにも聞こえたとのことだが、その「古風朴直(ぼくちょく)」な学風と人柄(芳賀徹)もまた、よく慕われた理由であったと思う。

第2に、その「文の人」としての側面である。富田が福澤生誕百年の記念歌「日本の誇(ほこり)」(1934)、「慶應義塾塾歌」(1941)の作詞者であることはよく知られているが、文学青年であった富田は、若い頃には小説も書いていた。大正13年創刊の文芸誌『青銅時代』には1年ほどの間に小説5篇、対話篇1つを出している。同15年には『三田文学』に短編「仲秋」を発表して、編集長の勝本清一郎(かつもとせいいちろう)から「純情に満ちた素直な作風が大変好い」との評を得た。『三田文学』にはその後も度々寄稿し、戦時中、同誌が停刊した時は、富田自身が発行人であった。さらに英文科出の富田には、米国の社会派作家アプトン・シンクレアの作品“Money Writes!”(『金が書く』、1930)やシンクレア評伝の翻訳もある。

そういえば富田の文にも、穏当堅実な筆致の間からシンクレア張りの批評精神が顔を出すことが時々ある。富田の福澤研究を考える場合には、時に広く、文の人としての仕事や気質にも目を向けることが必要だと思っている。

たまきはる命死ぬべき恋もせば
この淋しさの癒えもせむかも

大正7(1918)年4月、読売歌壇に採られた歌の詠み手は「横浜 富田正文」。自らの道を見出す前、19歳の富田の作と見るとき、その後の生涯を想うて、感慨は尽きることがない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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