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【福澤諭吉をめぐる人々】
富田正文

2020/05/30

学士院賞受賞祝賀会にて (1965 年5月25日 東京会館)
  • 大久保 忠宗(おおくぼ ただむね)

    慶應義塾普通部教諭

あかあかと一本の道とほりたり
たまきはる我が命なりけり

斎藤茂吉、大正2年の作である。

福澤諭吉の研究者・考証家として、また「慶應義塾塾歌」の作詞者として知られる富田正文(とみたまさふみ)は、まさに福澤諭吉という存在によって照らされた1本の道を我が道として、それを黙々と、真っ直ぐに歩んだ人であった──かつて彼を慕う人々がその米寿を祝った時、富田は挨拶でこの歌に触れ、それが自身のため大事なものであったことを語った。私はこれを聞いてから、富田について右のような印象をもつようになった。今回は富田が歩んだその道を、読者とともに辿ってみたいと思う。

震災後の出会い

富田正文(戸籍上の表記は冨田)は明治31(1898)年8月20日、茨城県磯浜町で生まれ飯富村の藤井で育った。文学青年だった彼は水戸中学卒業後、足かけ4年ほど住友銀行で働くうち大学進学を考えるようになり、大正9(1920)年秋、慶應義塾大学の文学部に入学した。ただし学資は乏しく、家庭教師や翻訳などの仕事をしながら学ぶ苦学生であったという。

その富田が福澤の著作や義塾史を研究する道を歩む転機となったのは、在学中の大正12(1923)年9月1日に起きた関東大震災であった。

当時、雑誌の記者をしていた彼は、この震災のために仕事を失った。そうなると学業の継続はもう難しい、故郷に帰る前にお別れを、と三田の山へ足を運んだ、そのことが、全く思いも寄らぬ展開を生むことになった。

偶々そこへ理事の林毅陸(はやしきろく)が通り掛り、話を聞いて富田の苦境を知った林は1つの提案をした──今度、石河幹明(いしかわかんめい)さんが福澤先生の伝記を編纂(へんさん)する、雑誌の記者だったのなら、その材料を集めるために人に話を聞いたりする仕事があるのだけれど、君はやれるか。

この奇縁から、富田はほどなく開設された福澤先生伝記編纂所で、同郷の大先輩でもあった石河の助手をしながら学業を続けることになった。ただ彼は「この仕事に携(たずさわ)る迄(まで)は、福澤先生に就(つい)て殆(ほと)んど無知識であつた」(富田「福澤先生の研究」、1927)。それを言うと石河は『福翁自伝』を渡し、どこに何が書いてあるか、諳(そら)んじるまで繰り返し読むよう命じたという。

このように始まった福澤伝編纂の仕事で、富田は常に傍らに在って石河幹明の仕事を扶けた。その口述を文字に起こし、その命ずる所に従って取材に赴き、談話をまとめ、原稿の字句を点検し、資料を整理し史実を考証した。

長らく『時事新報』の主筆を務めた石河は極めて厳格な編者であったが、この若い助手の仕事に信を置くようになり、彼が手掛けた談話筆記も多く採用した。昭和6(1931)年、4巻から成る『福澤諭吉傳』(以下「傳」)が完成した時、石河はとくにその例言で富田の功を記してその労を多とし、さらに第四巻の末には、富田自身が書いた「本書の編纂に就て」という一種の解説文が、署名入りで掲げられることとなった(刊行は翌年)。

その文で富田は、石河が福澤の言行に恣意的な解釈評論を排し「厳重に事実を事実として記述するといふ立場を守」ったことを強調しているが、この姿勢は、後の富田自身の仕事にも継承されることとなった。晩年富田は、石河の手伝いができたことを「生涯の幸いであり、また光栄の至りであった」と言っている(『考証福澤諭吉』序)。

あわせてまた、富田はこの仕事を通じて、義塾を創った福澤諭吉という人物に対する認識を全く新たにした。入学して後、何かにつけて「福澤先生」を持ち出す人々に「錦の御旗」の押し付けを感じていた彼は、「自伝」を読み石河の下で福澤の人と思想に向き合ううち、数年後には「先生の事蹟の如きは十分に科学的な研究対象とするに価する。先生の生涯の研究は一面に於て維新史の研究であり、明治文化発展史の研究であり得る」(「福澤先生の研究」)と説く人になっていた。

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