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【福澤諭吉をめぐる人々】
松山棟庵

2020/04/27

慶應義塾福澤研究センター蔵
  • 山内 慶太(やまうち けいた)

    慶應義塾大学看護医療学部教授

福澤諭吉が第1回目の脳溢血に倒れたのは、明治31年9月26日のことであった。一時の危篤状態を脱して回復したことから、12月12日には、祝賀の同窓会が開かれた。今の東京タワーの所にあった紅葉館に約400人の塾員が参集した。治療に尽力した医師達も招かれ、出席者の感謝を受けたが、その医師団を代表して挨拶した松山棟庵(まつやまとうあん)は、回復は先生の体力が強かったからで自分達の功労ではない旨を述べた上で、次のように語った。

「自分に於て一つの功労はこの松山の面が先生病気の寒暖計と為りしこと是れなり。先生の容態悪しきときは、則ち松山の面は三角となり、宜しきときは四角と為り、日々先生の玄関に詰め掛けたる幾多の門人等は、松山の顔色に依って先生の病状を卜したりと云う。若(も)し自分に功労ありしとすれば只この一時のみ」

社中の人達は先生の病態を案じ、松山の表情を窺いながら一喜一憂していた様子がよくわかるエピソードである。

松山は福澤とその家族の家庭医でもあり、慶應義塾の学校医のような存在でもあった。

福澤に親しく学ぶ

松山棟庵は、天保10(1839)年、紀伊国那珂郡、現在の和歌山県紀の川市桃山町の医者の家に生まれた。安政元(1854)年、京都に出て、蘭医の新宮涼民(しんぐうりょうみん)の下で、蘭学を学んだ。

その後、江戸に出て来たものの、縁故も無く途方に暮れていたところを、福澤の適塾以来の親しい友人である山口良蔵と知り合った。山口に「それは外(ほか)へいっちゃア行かぬ、福澤に行くに限るから、連れて往ってくれる」と言われて福澤と会い、入塾したという。慶應2(1866)年のことである。

それから間もなく、福澤は、3度目の洋行で渡米し、大量の洋書を購入して来た。その時のことをこう回想している。

「それから先生が帰って本を沢山くれたんです、どれでも勝手次第に是を取るが宜(よ)いと云うので、先ず私が一番に取ったのはブリントンで、今でも持っておりますが、私はそれを翻訳して出版しました、文章のわからぬ所は小幡さんに聞きました」

小幡さんとは小幡篤次郎のことで、松山は福澤渡米中も「まだ私は新参者で、(略)追々と塾に這入(はい)って、小幡先生の側に居て、始終教を蒙(こうむ)って居りました」と親しくなっていた。

この翻訳は、フリントの内科書の中の1部で、『窒扶斯(チフス)新論』として出版した。原稿を福澤に示したところ、「これはよく出来た。直ぐに出版しなさい。資金は貸して上げよう」と言われ、出版経費の総額200円を福澤が貸してくれたのである。この本は、「兎(と)に角(かく)英文の医書を翻訳したのは、これが初めてのことで、珍しいものでありますから、非常に沢山売れました」という。

松山は、その後も、『初学人身窮理』のような医学書だけでなく、『地学事始』、『傑氏万邦史略』等を翻訳出版している。

塾が慶應4年に芝新銭座に移ってからは、「コヲミング氏人身窮理書会読」を担当した。一方で、福澤のウェーランドの経済論の講義に出ると、「どうも眠たくなって眠たくなって如何にも仕方が無い、(略)どうしても難しくてよくわからないから、この講義だけは聞かぬで、色々と翻訳したり何かして、大分先生に親しくお目にかかって教えを受けることになった」という。福澤の書斎は2階にあり、「度々上って行ってお話を親しく申し上げたり、伺ったりするようなことが出来」たという。

福澤は松山の努力を高く評価していたようで、山口良蔵に宛てた書簡でも

「松山生頻(しきり)に勉強にて余程(よほど)上達、(略)一両年を不出して一個の英学者に可相成存候」(慶應3年9月)、「松山之上達は格別、小泉抔(など)も頼母(たのも)しき品物(しろもの)」(慶應4年閏4月)と伝えている。

小幡篤次郎と棟庵(右) (慶應義塾福澤研究センター蔵)
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