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【福澤諭吉をめぐる人々】
井上 毅

2020/03/27

明治14年の政変と福澤諭吉

明治14年の政変とは、参議大隈重信とその一派が政界から追放された事件である。当時、在野の国会開設請願の運動は高まりを見せていた。政府は国会開設と憲法制定の意を固めたものの、内部では開設時期について対立が存在した。即時開設を望む大隈は明治14年3月に、「立憲政体に関する意見書」を他参議や右大臣岩倉具視に諮ることなく左大臣有栖川宮への密奏という形で提出した。それを後に知った伊藤は激怒し、岩倉は井上毅に対案の憲法案を意見させるに至る。同時期、北海道開拓使の官有物を安価に払い下げる政府の決定が『東京横浜毎日新聞』のスクープによって露呈する。

政府への批判は、国会開設の請願と相まり最高潮に達する。反大隈派の中では、この政府批判運動を、大隈と結託をした福澤が、門下生を扇動し、岩崎弥太郎を資金源に起こした陰謀であるという考え方が支配的となる。そこで10月に福澤の影響下にある三田派の官僚と大隈を罷免したというのが政変の経緯である。また、追放劇と同時に政府は世論を鎮めるため官有物払下げの中止を発表し、10年後の明治23年の国会開設を約束した。

この政変は、政治史の中では、薩長藩閥政治確立の契機、プロイセン型憲法制定へ大きく舵を切る契機として位置付けられている。つまり、明治国家体制を方向づける大きな転換点とも言える政変なのである。

それでは、福澤は実際に陰謀を企てていたのか。本稿冒頭でも記したように、この時期、福澤は政府批判はおろか、政府の機関紙発行に携わる意を固くしていた。当初、大隈、伊藤、井上馨の3参議から依頼を受けた直後の福澤は、謝絶をする意を持っていた。しかし、後日、伊藤、井上馨の両名から、決して裏切らないため是非協力をして欲しいという旨と、国会開設の意向、さらに政党内閣制を検討している意向を聞く。この時期の福澤は、著書『民情一新』の中で示しているように、英国型の議院内閣制、2大政党制の実現を構想しており、両名の意向に「明治政府の幸福」「日本国も万々歳」といたく感銘を受け協力を決めたのであった。

ところが、その僅か数カ月に起こったのがこの政変である。福澤の門下生の数名が全国各地で政府批判の演説を行っていたことは事実である。しかし、福澤自身はその行動に対しては否定的な態度をとっていたことは当時の書簡で証明されている。そんな福澤にとって、自らが政敵と認識をされることは、何の身に覚えもない青天の霹靂であった。政変を境に、井上馨、伊藤博文との友好的関係は一方的に断絶され、新聞発行の約束も反故にされたのであった。

福澤批判と政治思想

政府の権力闘争とは、無関係であったはずの福澤が政敵にされていく。その過程の鍵を握るのが井上毅である。井上毅はこの時期、執拗なまでに福澤・交詢社の名を挙げ、大隈との関連性を強調し、その思想と影響力について逐一批判を加えていた。

岩倉具視に対しては、大隈の憲法案に対し意見を求められた際、書簡と共にわざわざ福澤の著書『民情一新』を添え、大隈と福澤の関係性を仄めかしている。その後の書簡でも改めて大隈案と交詢社私擬憲法との共通点を指摘する。政変直前、つまり各地の政府批判が最高潮に達している時期には、「福澤は盛に急進論を唱え、その党派三四千に満ち、広く全国に漫遊し、已に直五島内部にも及び、その他各地方この二三十日来結合奮起の勢にてこの儘(まま)打過ぎ候」と福澤の脅威に檄文を飛ばしている。

伊藤に対しては「内陳」と題する書簡で、在野の国会請願の徒による憲法研究は福澤の私擬憲法を根にしており 「故に福澤の交詢社は即ち全国の多数を牢絡(ろうらく)し、政党を約束する最大の器械にこれあり」と民権家の活動の裏に福澤があるかの如く記す。さらに「其の勢力は無形の間に行はれ、冥々の中に人の脳漿(のうしょう)を泡醸せしむ」、「その主唱者は十万の精兵を引て無人の野に行くに均し」と続け、福澤の影響力に警鐘を鳴らしている。

この警戒心は、政変後も続き、冒頭にも示したように1カ月後の「人心教導意見」中でも「福澤諭吉の著書一たび出て……挽回することならんや」と福澤の脅威を訴えている。同時期に書かれている「斯文学会意見」の中では、「官民調和論」を否定し、「兵論」など『時事新報』の社説にまで言及する箇所が見受けられる。異常な執念で福澤の危険性を訴え陥れている。

諸研究の中には『東京横浜毎日新聞』が手にした官有物払下げの情報も、毅が政変を起こすために流した可能性があるとするものも存在する。

では、どのような思想故に福澤を忌避したのか。後の研究者から「国体教育主義」者と評されるように、毅は自身の国体観への執着が強い。その国体観とは「政党内閣ノ大害」から引用すれば「主権は常に聖天子の総らんし給し所」であり、神武天皇以来の天皇統治の継続こそが国体であるという考え方である。従って「君民同治たれば二千五百有余年の国体や消滅せん」ことであり、『文明論之概略』の文中にあるような「文明に便利」か「不便利」かによって君臣関係の可否を判断し、「立君の政治も改」めることも可能と記すような福澤の考えは危険思想であった。

また、国体を維持するためには、留学期に目の当たりにした、国王が強権を持つプロイセン型の憲法こそ理想と考えた。その毅にとり、『民情一新』で示される英国型の「臨御すれども統治せず」、「政党内閣新陳交替の説」、「内閣執政をして連帯責任せしめ」る考えは、「帝室内閣の議院内閣とは両立せず」、「日本の主権は期せずして議院に其一半を掌握」させてしまう許されざる憲法であった。さらに儒学的思想、秩序も重んじた毅は、「孔孟をもって厭制之本尊」とし、「とても漢学と調和」できない『学問のすゝめ』の思想も批判対象であった。

史料上、福澤が井上毅の存在を認識していた可能性は低い。福澤は冥々のうちに政治的に排除され、英国型の憲法体制も官民調和論も拒まれたことと なる。

一方、政府機関紙の準備で集めた資金と人材により生み出されたのが「不偏不党」を掲げる『時事新報』でもあった。

また、両名の見えざる対立は、「教育勅語」、「修身要領」などを通し、政変後も続いていたともいえる。

もし、政変がなく福澤の掲げる英国型の議院内閣制、「修身要領」的道徳観が採用されていたならば、理想とする官民調和の姿勢が根付いていたならば、その後の日本はどのような運命をたどっていたのであろうか。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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