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【福澤諭吉をめぐる人々】
井上 毅

2020/03/27

国立国会図書館ウェブサイトより
  • 小山 太輝(こやま たいき)

    慶應義塾幼稚舎教諭

明治13(1880)年12月。福澤諭吉は、大隈重信、伊藤博文、井上馨(かおる)の3参議から政府の機関紙発行の依頼を受ける。福澤は一度は断る姿勢を見せるも、これを前向きに捉え、悲願である「官民調和」実現の第一歩を歩もうとしていた。「民」の福澤に「官」が最も接近した瞬間であったともいえる。しかし、僅か数カ月後、福澤の預かり知らぬところでそれが白紙となる。明治14年の政変である。

「福澤諭吉の著書一たび出て、天下の少年、靡然(びぜん)として之に従う、その脳漿(のうしょう)に感じ、肺腑(はいふ)に浸すに当て、父その子を制すること能(あた)わず、兄その弟を禁すること能(あた)わず、これ豈(あに)、布告号令の能(よ)く挽回する所ならんや」。これは明治14年の政変1カ月後、その黒幕の一人と言われる井上毅(いのうえこわし)が著した意見書の一節である。

神童から官僚へ

井上毅は、天保14(1843)年、肥後熊本藩にて下級武士の飯田権五兵衛の3男、多久馬としてこの世に生を受ける。幼少の頃から神童ともてはやされた。嘉永5(1852)年に主君長岡是容(これかた)に見いだされ長岡家の家塾である必由堂に入り5年間を過ごす。さらに是容の推薦で安政4(1857)年に儒学者である木下犀潭(さいたん)の下で学ぶ。文久2(1862)年、今度は木下の推薦で藩校時習館に学ぶことになる。時習館では、時には同校の卒業生である横井小楠(しょうなん)を訪ね、討論を交わしたこともあった。

この間、井上茂三郎の養子となって姓が井上となる。慶應3(1867)年には江戸幕府が開設した横浜のフランス語伝習所に所属するが、大政奉還の混乱の中で早々に帰郷する。それでも次には、長崎のフランス語伝習所へ赴く。しかし、今度も熊本藩が戊辰戦争に参戦した影響で断念。藩命で従軍することとなる。実際には熊本藩兵はほとんど出番がなくあっという間に帰藩している。その後は、藩の指示で1年ほど長崎に滞在。明治3(1870)年には、大学南校へ通い、翌年には明治政府の司法省に仕官。明治5年には名を多久馬から毅へ改める。

毅は、官僚として、生涯に様々な有力者に仕える。フランス語ができたことで、司法卿江藤新平の西欧使節団の一員として渡欧。明治8年には、洋行の成果を活かし『王国建国法』を翻訳出版している。帰国後は大久保利通に重用される。明治7年には佐賀の乱を鎮圧する大久保に同行。明治10年には伊藤の下、西南戦争に同行。明治11年、大久保の暗殺後は岩倉具視のブレーンとしての地位を確立し、同年には琉球処分を巡る清との交渉に出かけた伊藤に随行。明治17年、朝鮮で起こった壬午事変・甲申政変に対応し和睦のために派遣された井上馨にも同行している。

毅は、様々な要所において随行・同行を求められており、伊藤から、「忠実無二の者」と表現されたように重宝された官僚であった。役職としては、内務大書記官、内閣大書記官、太政官大書記官などを経て、明治21年には法制局長官、明治26年には第2次伊藤内閣の文部大臣などを歴任している。また、国会開設の詔、軍人勅諭、皇室典範、教育勅語、明治憲法草案の起草などに携わっている。これらの作成過程では、時には自分の考えを強く主張し、それを草案に盛り込んでいく強引さも持ち合わせる。正に明治政府建設の礎に直接携わった人物である。各実績の評価や過程は膨大であるため、ここでは福澤と最も深く関係する明治14年の政変を通し、その人物像に触れたい。

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