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【福澤諭吉をめぐる人々】
福澤三之助

2019/11/25

弟諭吉の道を拓く

諭吉を蘭学の道に誘ったのは、「漢学者」の三之助であった。このころ諭吉は、漢学の師白石照山が事件に関係し藩から追放の処罰を受けた直後で、途方に暮れていたのかもしれない。原書の意味も分からぬ諭吉に、三之助は、「いま日本に翻訳書というものがあって、西洋のことを書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本の蘭文の書を読まなければならぬ。それについては、きさまはその原書を読む気はないか」と蘭学の勉強を勧めたのである。諭吉に何が何でも蘭学を学びたいという気持ちはなかったが、難しく世間の人がやらないものならばやってみようと考えた。こうして三之助は、長崎に仕事で赴く機会に乗じて、弟諭吉に供をさせ、長崎に遊学をさせたのである。長崎には「家老の子」の奥平壱岐が遊学中で、光永寺に滞在していた。諭吉が、その「お寺の居候」になるように、奥平壱岐に推挙したのは三之助であろう。

諭吉の長崎遊学は、その奥平壱岐の実父の計略により1年ほどで幕を閉じねばならなくなった。とはいえ中津に帰る気などさらさらない諭吉は、江戸に行くと決めて、まずは船で大坂に向かった。

大坂の中津藩蔵屋敷は、諭吉の誕生地でもあり、兄三之助が勤務する場所でもあった。三之助は、長崎出張後に父と同じ大坂在勤となっていたのである。長崎で勉強しているはずの弟が出し抜けにやってきたことに驚く三之助に、諭吉は包み隠さず長崎での顚末を話した。ここでの三之助の返答が面白い。「きさまは長崎から来るのに、中津の方が順路だ。その中津を横に見て、おっかさんの所をよけて来たではないか。(中略)おれがここできさまに面 会しながら、これを手放して江戸に行けと言えば、兄弟共謀だ。いかにも済まぬではないか」と、母に挨拶しなかったことを咎めつつ、中津に戻れとは言わずに、大坂に止まり蘭学塾で学ぶことを勧めるのである。諭吉は、兄の意見を入れて、大坂に緒方洪庵という先生がいることを聞き出し、三之助のもとから適塾に通うことになるのである。『自伝』の話は、ここまでであるが、この後、三之助は母に手紙を認め、さらに諭吉の大坂滞在のための手続きを進めたのではないかと想像できる。

大坂の兄弟が不幸に見舞われたのは、安政3(1856)年のことである。三之助はリウマチに罹り、右手を使うことができなくなった。同じころ、諭吉も腸チフスという病に感染した。幸い諭吉は回復し、三之助も大坂での任期を終えたところで、兄弟そろって中津に帰ることになった。諭吉は2、3カ月で全快し、大坂に戻るが、ほどなく中津から急報が届いた。「9月3日に兄が病死したから即刻帰ってこい」という知らせであった。三之助は、数えで31歳と短い生涯であった。

兄の想いと弟の配慮

諭吉の少年期と青年期とでは、三之助の態度が随分と変わっている。それはこの兄弟の成長と合わせて考える必要があるだろう。早くに家督を相続した三之助は、家を守るとともに人知れず弟を一人前にせねばならぬという責任を背負っていたはずである。それが「死に至るまで孝悌忠信」というような極端な言い方で、奔放な弟に封建社会の中での生き方を諭すことになったのではないか。それから数年、三之助は、諭吉の可能性を見抜いたのかもしれない。少なくとも、弟が門閥制度でがんじがらめの中津を出たがっていることは察していたであろう。かつて父百助は、門閥制度から脱するために、諭吉を坊主にしようと言ったが、兄三之助は、折から西洋式の砲術研究が注目される中で、諭吉の進む道として蘭学を見出したに違いない。三之助は、諭吉を長崎に連れ出し、さらに大坂でも蘭学を学び続けられるように世話をした。そこには、弟の将来を案ずる弟想いの兄の姿を見ることができる。

三之助病死の知らせを聞いて、諭吉が中津の家に帰ると「親類相談の上、わたしは知らぬ間にチャント福澤の主人になって」いた。しかし、諭吉は中津に止まることには我慢がならず、叔父はじめ周囲の賛同を得られぬまま、母順に背中を押され、再び大坂の適塾に戻ることになる。この時、もちろん兄三之助は亡いが、生前、病床にあって、先の事を順と話し合っていたのではないか。三之助ならば、諭吉が大坂に戻りたいと言い出すことは予期していたはずである。

諭吉が大坂に旅立ち、中津の家には母順と、三之助の一人娘、一(いち)が残された。三之助の妻は、藤本寿庵と百助の妹國の次女で年といった。年は三之助の死後、中津藩士の川島藤兵衛と再婚したため、一は祖母に当たる順が引き取ったのである。

諭吉はこの2人を心配し、慶應義塾の三田移転が確実となったのを機に、中津に里帰りして2人を東京に連れてきた。こうして、一はしばらく三田に住んでいたが、順の死後は中津に帰り、叔母(諭吉の姉)の服部鐘(かね)の養女となった。のちに田尻竹之助という農 家のもとに嫁ぎ、明治26(1893)年に死去した。諭吉がその前年、鐘に宛てて送った手紙には、「ミルク玉子は勿論、当人の好みに任せ、うなぎすっぽん海魚等何によらず十分にたべさせ」るように、また「養生の為には金をおしまぬよう」(『福澤諭吉書簡集』)になどと、病気の一を心配し、細々とした指図が書かれていた。

その後、一の次女豊(とよ)が鐘の養女となり、その子孫が健在である。筆者は、豊の曾孫に当たる服部雅一氏と、その子雄大氏(普通部在学)に面会した。雄大氏は、2018年の普通部労作展で、自分の先祖である服部鐘とその家族について詳細な調査を実施し、鐘の 人柄に迫る作品を出展している。残念ながら服部家に三之助の遺品や遺訓はないものの、諭吉の配慮と金銭面での支援、そして鐘の献身的な養育によって、服部の家と三之助の血筋は今日まで受け継がれているのである。

順と一(福澤研究センター蔵)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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