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【福澤諭吉をめぐる人々】
ドクトル・シモンズ

2019/10/28

長男次男の米国留学を支える

シモンズは、14年の年末、アジア、ヨーロッパ周りでアメリカに帰国した。途中、インドから福澤に宛てて「小生只管(ひたすら)君と手を携え、共に此楽遊を為さざりしを遺憾に存候。日本は小生の為に、第2の故郷に有之候。此故郷の朋友を後に遺し遠く相別るる小生の心中の煩悶はご推察被下度候(くだされたくそうろう)」と日本への情を切々と記している。

しかし、帰国後も2人の交遊が途切れることはなかった。福澤の長男の一太郎、次男の捨次郎が16年にアメリカに留学したからである。特に一太郎は身体が弱く性格も内向的であったので、親としての心配も大きかった。シモンズはその心配を率直に話し、安心して託せる人であった。

福澤は留学に当たってシモンズには「固(もと)より亜米利加に行て、同国に小生の切友なる君の在るあり、仮令(たと)い特別に御依頼を煩わすなきも、一般に御添心を願うは小生の心事」と記し、また健康、品行について助言を頼んだ。そして、「日本少年の身体は之を米人に比して薄弱なるが如し。故に学問の速成を求めて健康を失わんより、寧(むし)ろ4、5年を費さんと欲するなり」と記した。

また、一太郎、捨次郎に宛てた手紙にもシモンズの名が頻繁に出てくるが、時に「身体健康の事に付てはシモンス氏へ呉々も依頼」するようにと伝え、また、「シモンズ氏老論のよし、是(これ)も致方なし。併(しかし)深切は実に深切なる人物ゆえ、其友誼をば大切にして、無益にさからわぬ方、少年の分と可申(もうすべく)」などと注意している。恐らく、シモンズの助言に対する愚痴でも書かれた書簡を受けての注意であろう。

シモンズ三田山上に住む

シモンズは、明治19年12月、母親と共に再び日本に到着した。シモンズの再来日は、福澤にとってアメリカに残る2人の子供を思うと不安もあったが、待ち遠しく嬉しいことであった。福澤はシモンズに対して実に親切で、その様子は藤山雷太が詳しく語っている。後に実業家として活躍する雷太は、この時義塾を卒業したばかりで、洋行の希望を福澤に伝えたところ、英語の力をつけてからの方が良い、そのためには、シモンズの家に同居して翻 訳の手伝いなどをするのが良いと勧められたのであった。

雷太は、後にシモンズの母親への孝養の篤さに触れて回想している。

「その点が福澤先生の非常にお気に入ったのでありまして、先生は暇さえあればドクトル・シモンズ母子を邸へ呼んで、お子さん達に芸尽しをさせて見せておやりになる等先生がシモンズ母子に対する御心尽しはとても親兄弟でも出来そうにもない程懇切を極めたものであります。」

福澤はシモンズ母子のために三田山上に家を建てて住まわせたが、丁度建築中、日光での避暑に同行していた雷太に宛てた書簡を見ると、西洋作りと日本作りを組み合わせ、住みやすいようにと、福澤が楽しみに細々と工夫を重ねている表情が浮かんでくる。

シモンズは、医業を廃し、日本を中心に東洋文明史の研究をする心積もりで、資料の収集を進めた。また、その頃の、表面的な欧化主義を危惧して、日本の優れた風俗、習慣までも破壊する傾向を批判する論説を精力的に執筆し、これを福澤は時事新報に掲載した。

福澤は、シモンズの論説が、日本を愛しながらも、「漫(みだり)に日本を賞讃するのみに非ず、苟(いやしく)も我社会上に駁(ばく)す可き弱点あれば之を論破して会釈することなし」で、日本の上流社会に畜妾等の悪弊があること等、女性の地位の低さを非難したのは「日本社会に頂門の一針を試みたること」であったと、その内容と「所見の公平さ」を賞讃した。

しかし、シモンズは、21年の夏頃から体調を崩し衰弱する。福澤の朝夕の見舞い、親友のドイツ人医師ベルツの治療も空しく、22年2月19日逝去した。57歳であった。

福澤は、親友の死を悲しみ、遺された80近い母親を案じ、そしてシモンズの著作が未完に終わったことを「千載の遺憾」と嘆いた。横浜居留地のユニオンチャーチでの葬儀には、福澤も参列し、葬儀が終わると、ベルツ、松山、隈川らの医師達と共に棺の脇を護りながら外人墓地に向かった。

なお、遺された母親は、同年5月、米国ユニテリアン協会から派遣されて来日していたナップが帰国する際に、伴われて帰国した。また、シモンズが収集した資料は、後に大学部法律科主任教授ウィグモアが編纂出版した。23年の大学部開設に向けて主任教授の招聘に尽力したのがナップであるが、そもそも、ナップと福澤の親密な関係の陰にもシモンズの存在があったのである。

青山霊園のシモンズ墓碑 長文の碑文の最後に「親友福澤諭吉謹誌」とある。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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