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【福澤諭吉をめぐる人々】
ドクトル・シモンズ

2019/10/28

シモンズ(慶應義塾福澤研究センター蔵)
  • 山内 慶太(やまうち けいた)

    慶應義塾大学看護医療学部教授

安政6(1859)年11月、神奈川の港に到着して以来、日本の医療に貢献して来た米国人医師、シモンズ(Duane B. Simmons)が亡くなったのは、明治22(1889)年2月19日であった。そして、27日夜、追悼の会で福澤は「その交情は二十余年来最も厚く、骨肉の兄弟も啻(ただ)ならざりし程の次第」と追悼の演説を行い、次のように締め括った。

「左ればドクトルは満座諸君の親友のみならず、我日本国の益友にして、30年のその間、陰に陽に我社会を利したるものは挙げて言う可らず。今や吾々の私には親友を失い、日本国の公には国友を失うたり」

福澤の命を救う

福澤は、明治3年5月に発疹チフスに罹った。人事不省が18日にも及び、その頃の病状は、後に自ら語ったところでは「私は病中夢うつつの間に聞いた寺の鐘とか汽笛の響とかないしは普請の音とかいうような音響が、両3年は耳についていて、これを聞くと変な気持がした」という程であった。

福澤が追悼演説で述べたところによれば、「頗る危険なる容体にて、友医友人も大に力を尽し心を労したけれども、治療法の一段に至り半信半疑決し兼ねたる処より、横浜のドクトル・セメンズを聘して」診察を頼もうということになった。義塾の校医的な存在の一人でもあった隈川宗悦(くまがわそうえつ)が主治医となり、大家の医師も招いて意見も求めたが、終始病床の傍についていた小幡篤次郎は、その意見がそれぞれ異なるために困惑したという。そこで、横浜のヘボンに診察をお願いしようと小幡甚三郎が訪ねたところ、ヘボンから推薦されたのがシモンズであった。シモンズの指示に従って薬や栄養を与えられ、ようやく快方に向かったのであった。

シモンズは、元々は宣教師として来日したが、間もなく、横浜の外国人居留地で医院を開業し、医師としての仕事に専念することになった。その後、欧州諸国に渡って更に医学を学び、再来日して間もない頃であった。

医師としての幅広い活躍

シモンズの横浜での活動については荒井保男氏の『ドクトル・シモンズ 横浜医学の源流を求めて』等に詳しい。

シモンズは、視野と関心が広く、診療だけでなく、公衆衛生の提言と実践でも活躍をした。例えば、明治5年には、神奈川県令に宛てて「防恙(ぼうよう)法」、つまり伝染病の予防策について建議を提出している。海外との往来の増大により、伝染病も持ち込まれることになる。そこで、検疫の仕組みが必要となる。また、横浜は人口も急増、沼地を埋め立てたようなところに日本人も密集していたため、衛生状態の改善が必要であった。そこで、その仕組みと共に、対応する部署として「防恙局」の設置を求めたのである。更に、西洋医学の普及と共に、ニセ薬のようなものまで出回るようになっていたため、薬品を検査し取り締まる仕組みも建議した。明治10年代にコレラが繰り返し流行した際には、横浜での流行を食い止めることにも活躍している。

シモンズは、福澤の周囲の医師達とも活動を共にした。伝染病予防の活動としては、明治5年出版の梅毒に関する『黴毒小箒(ばいどくしょうそう)』がある。これは、シモンズが講述したものを近藤良薫が筆記、松山棟庵が校閲したもので、近藤も松山も義塾で英学を学んだ医師である。

診療面では、横浜にも病院をと明治4年春に作られた仮病院でシモンズは週一回出張診療を行ったが、開院に尽力したのは、義塾で英学を学んで丸屋商社(後の丸善)を創めていた早矢仕有的、「医官総括」は松山棟庵であった。仮病院は、間もなく近隣からの火事で焼失するが、その後継として神奈川県権令大江卓らの尽力で作られたのが十全医院(今日の横浜市立大学病院の前身)で、シモンズは中心となって活躍することになる。

当時のシモンズの評判を示すものに、読売新聞の記事がある。

「横はまの米国人のセメンズという医師さまは日本に久しく居て此国の言葉もよく分り土地の様子もよく知り日本人の働工合(はたらきぐあい)から体の骨格(ほねぐみ)万事に気をつけて居るゆえ薬の分量や養生のいたしかたも日本人に適当(よくあう)ように申しますから彼(か)ような人にかゝれば大丈夫と思います」

更に、東京からも日本人、外国人問わず受診していたことから、東京でも週2日診療を始めたこと、重病には往診を、貧しい人には施しで診療していることも記されている。この東京での診療も、隈川宗悦宅で、後には松山と隈川で作った共立病院で行われた。

日本でドイツ医学中心の医学教育が始まるなかで、英米流の医学教育をと、松山が中心となって三田山上に慶應義塾医学所が作られたのは明治6年である。臨床の実地の教育は、松山が杉田玄端と三田の山の下に作った尊生堂病院(後の松山病院)等で行われたが、それを担ったのも、松山、杉田、隈川、そしてシモンズらであった。

なお、医学所は13年に閉校したが、翌14年、松山ら医学所を担った医師達は英国留学から帰国した高木兼寛らと「成医会」を結成した。後の東京慈恵医科大学の原点である。冒頭の追悼会は成医会が開いたもので、成医会の医師達とシモンズは親しい関係にあった訳である。

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