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【福澤諭吉をめぐる人々】
高橋義雄

2019/07/30

欧米商業の実地調査

イーストマン商業学校は実践を重視する学校だった。学生は簿記や商業理論を学んだ後、実際の貨幣を同校だけで通用する貨幣に替え、学生同士で商品や株を売買する。相場は実社会と同じで、学生は学内のイーストマン銀行で融資を受けることも出来た。ここで欧米商業の実際を体感した高橋は、明治21(1888)年3月に同校を卒業し、マンハッタンで実地調査を開始する。ついで訪れたフィラデルフィアでは、百貨店・ワナメーカーを見学した。同店にはイーストマン商業学校の卒業生が多く採用されていたので、伝(つて)があったのかもしれない。

ワナメーカーは当時のアメリカでも珍しい百貨店であり、規模も含めて「其頃米国第一」であった。高橋は同店が「一棟の下に人間必需品を陳列」していること、「何でも蚊でも売らぬ物はない」ことに驚く。「婦人の店員が大に活動」していたことにも感銘を受けて、「各種の品を一軒一軒買ひ廻るよりも、一箇處で用を達せんとするは人情の自然で、此デパートメント・ストアの販売法が、小売商店の大勢を制するのであらうと感じ」ている。

その後高橋はイギリスに渡り、リバプールでは商業会議所副会頭・ボースと出会って実地調査に多くの便宜を得ている。ただ、高橋がボースから学んだのは商業だけではない。ボースは日本の美術品を蒐集していて、日本の名誉領事も引き受ける親日家だった。高橋はボースから日本美術を学び、日本美術の意匠が欧州で流行していることも知る。意匠が人を惹きつけることを肌で感じた高橋は、商品販売においても意匠に気を配るべきであるという考えに至って、帰国後に執筆した『商政一新』でその考えを披露している。

フィラデルフィアのワナメーカー百貨店(高橋義雄著『箒のあと』上巻より)

小売業の改革

明治22(1889)年9月に帰国した高橋は、福澤に誘われて時事新報社の客員となり、欧米の見聞録などを執筆する。しかしもともと実業で身を立てるために洋行した高橋である。明治24年、三井銀行本店に入行する。『商政一新』が三井家顧問・井上馨の目に止まって、三井に迎えられたらしい。一方この頃、三井改革のために中上川彦次郎がやはり井上に請われて入社している。福澤はその中上川宛の書簡で、「この大伽藍の掃除に高橋にて何の役に立つべきや、唯一個の書記たるに過ぎず」と述べているが、高橋が再び時事新報を去ることに対するショックがこうした厳しい言い方に繋がったのかもしれない。

ただ高橋は、福澤の予想を良い意味で裏切った。井上の依頼のもと「三井家憲」の作成に関わり、三井の資産・負債整理にも貢献した。大阪支店長となった際にはワナメーカーに倣って女性店員を起用し、新風を吹き込んだ。明治28年には三井呉服店理事に就任し、同店の改革に乗り出す。同店は三井関連企業の中でも家祖・三井高利以来の家業であったが、それゆえに旧態依然の経営が行われていて、業績不振に陥っていた。

高橋は創業本来の呉服中心の改革を重視する一方、まず帳簿を江戸時代以来の大福帳方式からイーストマン商業学校で学んだ洋式簿記に変えていく。前者では正確な仕入れ値や売上高、在庫残高などの把握が困難であったが、それらの問題をクリアした。仕入れについては、それまで仲買人を経由していたのを生産者からの直買に切り替えてコストを削減した。加えて、商品の販売方法を座売り方式から陳列販売方式に変えた。前者において商品は奥の倉庫に納められており、客は店先で模様見本帳を見て選ぶ。一方後者はガラスのショーケースにそのまま商品を並べるので、客はより自由に、自分のペースで選ぶことができる。高橋がワナメーカーで見た風景が、日本で初めて取り入れられたのである。

さらに高橋は意匠係を設置し、日本画家を招聘して意匠の研究開発に当たらせた。模様の数も増やして、客の好みに応じられるようにした。絵看板や絵広告、日本初の宣伝冊子とも呼ばれる『花衣』を作ったのも意匠係である。こうした広告媒体は流行の発信にも用いられ、明治30年代後半から40年代にかけて流行した元禄模様の仕掛け人は高橋および意匠係だったという。

他にも高橋は、例えば欧米人向けの売り場を設けて、日本美術に取材したショールや袋物を販売した。呉服以外の雑貨を商品に取り入れたのはこれが初めてであった。あるいは人事改革として、女性や近代経営を学んだ学卒者の採用を推進したり、年季奉公制を給料制にしたりして、三井呉服店の古い体質を180度転換していった。こうした急進的な改革は古参従業員の反発も生んだ。しかし高橋の改革は〝お客様が足を運びたくなる店〟を作るためのものであって、そうした概念を小売業に持ち込んだのはまさに革命的であった。そして高橋のこうした熱意は後進に引き継がれる。明治37年に店名を三越呉服店に変えた際にはいわゆる「デパートメント・ストア宣言」が出され、同店は日比翁助(ひびおうすけ)主導のもと、日本最初の百貨店へと発展していくのである。

なお高橋は、改革がひと段落ついた時に福澤を店に招いている。福澤は店内を回った後、「呉服店の営業は、(中略)、煩雑な事務であるのに、学者が飛び込んで、二百年来、其事務に慣れた番頭の仕事を引き受けて、さっさっと之を改革して行くと云ふのは、何と愉快な事ではないか」と喜んだという。

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