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【福澤諭吉をめぐる人々】
高橋義雄

2019/07/30

高橋義雄(慶應義塾福澤研究センター蔵)
  • 結城 大佑(ゆうき だいすけ)

    慶應義塾ニューヨーク学院(高等部)教諭

高橋義雄(たかはしよしお)は文久元(1861)年に水戸藩下級武士の家に生まれ、昭和12(1937)年に77歳で亡くなった。高橋は実業家として三井銀行、三井呉服店、三井鉱山、王子製紙といった三井関連企業を渡り歩き、特に三井呉服店で主導した経営改革は日本の小売業の近代化にも大きな影響を与えた。

一方、51歳で実業界を引退した後は数寄者として活躍し、箒庵(そうあん)の庵号で知られている。茶道研究に注力し、丹念な茶器調査の成果は『大正名器鑑』や『近世道具移動史』といった名著にまとめられている。

「洋行して箔を付けて来なくてはならぬ」

高橋が初めて福澤諭吉の名を知ったのは水戸の漢学塾・自強舎に通っていた時だった。この時高橋は14歳。『文明論之概略』を読んだが、特に心服した訳ではなかったという。その後茨城中学校に入学した高橋は、同校教授で福澤門下生の松木直己(まつきなおみ)に出会う。松木はいつも「福澤崇拝論を鼓吹」する人物であり、高橋は初め「又例の大言が始まった」というくらいにその話を上の空で聞いていた。しかし、何度か話を聞いているうちに福澤や慶應義塾に関心を持つようになり、福澤に会わずして「福澤贔屓」になっていた。

その高橋が福澤に出会ったのは明治14(1881)年6月、21歳の時であった。福澤はこの頃『時事新報』の創刊を目指しており、社説執筆を担える人材を探していた。松木から「水戸の中学に文章を能くする青年が四五人ある」と聞いた福澤は、彼らを義塾に入れて、卒業後は新聞記者にするのはどうかと松木に提案する。しかも学費は福澤が負担するという。松木は大喜びで水戸に帰り、高橋や石河幹明など4名を義塾に送り出したのである。

こうして塾生となった高橋は、福澤から直接論説の書き方を学ぶなど、記者になるための道を順調に進んでいった。演説にも興味を持ち、当時予科生の黒岩周六(涙香(るいこう))と夜中演説館に忍び込んで演説の練習をしたこともあったという。翌年4月に義塾を卒業した高橋は予定通り時事新報社に入社し、10月にはその論説が初めて社説欄を飾った。福澤は水戸の書生の成長にさぞ喜んでいたことであろう。

しかし高橋は明治20年、記者を辞めることを考え始める。「一時実業界に寄り道して、生活の安定を得たる上にて、再び文芸生活に立戻り、気楽に作文趣味を楽む」というのが彼の計画であった。同時に、実業界で成功するには「洋行して箔を付けて来なくてはならぬ」と判断し、その心中を福澤に打ち明ける。福澤は高橋の離脱が時事新報に与えるダメージを懸念して慰留したが、高橋は意志を曲げなかった。同年9月に渡米すると、12月にはニューヨーク州ポキプシーにあったイーストマン商業学校に入学した。ちなみに同校には、明治9年から明治45年にかけて12名の義塾卒業生が留学している。最初の留学生はマンハッタンで貿易事業を展開したモリムラ・ブラザーズの創業者・森村豊で、高橋は同社社員の村井保固(やすかた)に勧められてイーストマン商業学校を選んでいる。

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