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【福澤諭吉をめぐる人々】
小泉信吉

2019/05/28

福澤との仲違い

福澤は小泉を信頼し、そして小泉も福澤を慕った。「衷心相信ずる師弟であり、父の幸福は、生れてこの師に遇い得たことであったといえる(「わが日常」)。」と信三は書いた。しかし一時的なボタンの掛け違いもあって、必ずしも深く理解し合い、終生仲が良かったというわけではなかった。とりわけ、塾の運営について、福澤と意見が合わなかったことが多々あった。

明治21年、同盟休校事件という塾生のボイコット事件があった。試験の及落について、門野幾之進の提案で、各学科試験全て60点以上を及第とする厳しい条件に改定したところ、塾生がこれに反発したのである。授業のボイコットは十数日間続き、参加学生は280余名となった。反対塾生の退学処分にまで発展すると、小泉の説得にも応じず、次々に退学希望者も出てきたため、福澤が説得にあたるなどして事態の収束に努めた。「これは小泉にとっての不幸だ」と福澤は中上川宛の書簡に記している。

せっかく大蔵省を辞めてまで来てもらったのに不手際なことだと、福澤は小泉に幾許かの不安を抱くようになる。反対に小泉は、塾の運営に干渉をし、塾生に理解を示す福澤に不満を感じただろう。試験制度の改革を立案した門野に対する批判が起こった時も、小泉は教え子である門野を支持したが、塾長である小泉の不同意にも拘らず、福澤は門野に休職の勧告をしたのである。これらが誘因となって、2人の間に微妙な感覚のずれが生じていった。

福澤は義塾運営の全てを小泉に任せて、自分は一線から退くつもりだったはずだが、22年には外国人教師の雇い入れについて、小泉が決めた報酬額について説明を求めるなど、実際には影響力を持ち続けていた。福澤本人が塾を私有する考えがなくとも、塾は福澤によって維持されてきた以上、「福澤を無権力のものにする」ことは困難だったわけである。これは小泉にとっては、「運営を任された」とはいえないものだった。塾長が取り決めたことが取り決めにならないのなら、そのような塾長は不要であろうと、小泉は、明らかに福澤の処置に不満を抱き、同年5月、病気を理由として故郷和歌山へ帰ってしまったのである。小泉夫人千賀は福澤家に暇乞いに行った折、福澤から「お千賀さん、なぜ信さんを止めてくれないのか」と問われ、「それもこれもみんな先生が悪いからじゃありませんか」と言って福澤の前で泣いた。

福澤は中上川を和歌山へ遣わし、自分も手紙を出したり、大阪で直接に小泉と面会をしたりするなどして、再三にわたって復帰を求めた。10月に帰京した小泉は、第1回慶應義塾評議員会で改めて塾長に選ばれたが、仕事には復帰せず(塾長は小幡が代行)、結局、翌23年3月に正式に塾長を辞めることになった。任されたはずの塾長の務めは、こうして辞任に至ったのである。

福澤諭吉涙を払て誌す

小泉が福澤塾に入門して以来の関係や、福澤が小泉自身やその家族に寄せた好意を考えると、この出来事は、小泉にとって生涯の最もつらい事件であったと察せられる。塾を去り、復帰の嘆願を聞き入れなかったことには十分理由があることだったとしても、福澤の恩情と我が師に対する真実の敬愛を思うと、忍び難いものがあったはずである。そして、おそらく福澤にとっても、信用した弟子の1人とこういう関係に陥ってしまったことは心苦しかったに違いない。

小泉が自宅で、福澤のことをただ「先生」と呼んでいたことを6歳の信三少年は記憶している。小泉がその後もずっと師を尊敬していたことを表すエピソードだ。

塾長辞任後、小泉は日本銀行役員を経て、24年に横浜正金銀行に戻り、本店支配人として激務をこなす生活を送った。昼夜を問わない忙しさに健康を損ない、盲腸炎が悪化し腹膜炎で亡くなった。27年12月のことである。福澤はそれまでに幾度も桜木町の小泉宅を見舞っている。そして小泉の死を悼み、死の翌日、以下の弔文を届けた。

「君の天賦文思に濃(こまやか)にして推理に精(くわ)し。洋書を読で五行並び下るは特得の長所にして、博学殆ど究めざるものなし。殊に数学は師に依らずして高尚の点に達してその最も悦ぶ所なり。既に学林の一大家たるのみならず、其心事剛毅(ごうき)にして寡欲、品行方正にして能く物を容れ、言行温和にして自から他を敬畏せしむるは、正しく日本士流の本色にして、蓋し君の少小より家訓の然らしめたる所ならん。その学問を近時の洋学者にしてその心を元禄武士にする者は唯君に於て見るべきのみ。我慶應義塾の就学生、前後一万に近きその中に、能く本塾の精神を代表して一般の模範たるべき人物は、君を措(おい)て他に甚だ多からず。左れば前記の履歴に大蔵省の奉職、銀行の出入の如き、唯是れ鶏(にわとり)を割くの牛刀にしてその利鈍を論ずるに足らず。今や我党の学界に一傑を喪う。啻(ただ)に慶應義塾の不幸のみならず、天下文明の為めに之を惜しむものなり。福澤諭吉涙を払て誌す」

福澤のこの切々たる弔辞一篇が、いかに遺族を勇気づけたろうか。「ただ有難いというより外ない」と信三は書いた。と同時に、「しばしのことでも父と先生が相隔たったことが、先生をしてその弟子の死を一層悲しませたのではなかったか」とも想像している。もし先に福澤が亡くなったとしたら、おそらく小泉は「先生生前の恩顧を思い、一時でもそれに背いた自分の至らなさを思い、悔恨と悲歎に堪えかねたであろう」とも信三は書いている。

小泉家ではそれから後、信吉の命日に必ずこの弔文を床の間に掛けた。6歳で父を亡くした信三少年は、毎年これを見続けることで父を近しく感じ、同時に福澤の深い愛情に感謝した。そして自分の子どもたちにも祖父の為人(ひととなり)を伝え続けた。小泉家の宝物で ある。

小泉死後1週間で生まれた末の娘は、「信吉」の一字をとって「信(のぶ)」と命名された。命名は他ならぬ、福澤自身による。

小泉家家族写真(左から千賀、信三、信吉、千)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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