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【福澤諭吉をめぐる人々】
小泉信吉

2019/05/28

小泉信吉(明治9年頃、ロンドンにて)
  • 神吉 創二(かんき そうじ)

    慶應義塾幼稚舎教諭

小泉信吉(こいずみのぶきち)の孫で小泉信三次女の妙氏は、著書『父 小泉信三を語る』の中で、「小泉信吉は武芸は駄目だったらしいのですが、子供の時から頭が良くて、殿様の前で2歳で論語を読み、母親のところへ戻ってお乳を飲んだという話があります。そして18歳の時に、紀州から留学生として江戸に出てきて、福澤諭吉先生のもとに入ったわけです」と述べた。また、小泉の息子信三は「師弟─福澤諭吉と私の父─」(『小泉信三エッセイ選2』所収)の中で、「この父は息子の私がいっては可笑しいが、福澤先生の弟子の中で、先生に特に信用された1人であったと思う」と書いている。

「福澤諭吉ここに在り」

小泉信吉は、嘉永2(1849)年、紀伊国和歌山藩士の家に生まれる。慶応2(1866)年11月に藩費留学生として築地鉄砲洲にある福澤の蘭学塾に入塾した(同じ紀州から初代幼稚舎長和田義郎も同日、入塾している)。

慶応4(1868)年は戊辰戦争の混乱で、一時は塾生が僅か18人にまで減っていた。そして5月15日には、彰義隊と新政府軍の上野での戦いの中も、福澤はいつも通り土曜日の日課であるウェーランド経済書の講義を続け、「世の中にいかなる変動があっても、慶應義塾の存する限り、わが国の学問の命脈は絶えることはない」と塾生を励ました。

毎年、1月10日の福澤先生誕生記念会の冒頭で幼稚舎生によって歌われる「福澤諭吉ここに在り」の歌詞に、「洋学の灯は消すまいぞ これが消えれば国は闇 我らのつとめ忘るなと 18人を励まして 福澤諭吉ここにあり」とある。この中に小泉信吉もいた。小泉は先生役をも務めるほど福澤から信頼されていた。

この「福澤諭吉ここに在り」の歌は、昭和39(1964)年、幼稚舎創立90周年記念式典で初めて歌われたのだが、作詞を依頼された佐藤春夫は、「その詩のテーマに択ぶべき福澤の生涯の出来事としてはどの1つを取ったらよかろう」とある人・・・に相談している。「お前はどこを歌ふ気か」と聞かれた佐藤が、「上野の戦争をよそにして授業して居られる先生はいかゞでせうか」と答えると詳しく教えてくれた。佐藤が相談したある人とは小泉の長男、信三であった。記念式典が行われた5月15日は、まさに「ウェーランド経済書講述記念日」その日である。佐藤春夫は、この式典の僅か9日前に急死した。式典に招かれた小泉信三は、壇上で亡き佐藤と、そして彼の詩に歌われた亡き父を想ったことであろう。

塾長就任

小泉は中上川彦次郎と共に明治7(1874)年イギリスに留学し、社会制度全般について学んだ。演説と討論の技量を高めるために、同年三田演説会が発足したが、その準備に福澤、小幡篤次郎、中上川ら14名があたり、そのうちの1人に小泉も数えられる。「スピーチ」という英語を「演説」と訳したのは福澤であることは有名だが、福澤にスピーチの必要性を説いたのは小泉であった。11年に帰国後、井上馨のすすめで大蔵省に勤務。13年横浜正金銀行創設準備にあたり、福澤の推薦により初代副頭取を務める。ロンドン支店設立のために渡英したが、15年には大蔵省に戻り、主税官となる。

そして20年、大学部設置(23年)の準備のために、福澤から強い要請を受けて慶應義塾長に就任した(就任当初は総長)。大蔵省の役人で財務に長けた小泉は、福澤が自費で援助する義塾の財政状態を、いかに改めて安定させられるかを期待された。福澤は、小泉に義塾の経営に携わってもらいたいと、総長就任の2年以上も前から考えていたという。

小泉は資金募集、学事改良、大学部創設準備などを進めた。交詢社でも創設発起人や初代評議員会議長(当時は会長)にも就任するなど尽力を惜しまなかった。慶應義塾を福澤家から離して、公共的性質の法人とすることが、塾の存立を強固にできるという信念だった。22年1月には、福澤、小幡、小泉の3名の名前で「慶應義塾資本金募集」が実施され、大学部発足のための寄附を呼びかけた。しかし、福澤と小泉には資金確保の考え方に違いがあり、必ずしも小泉に全てを任せた形の就任要請ではなかったという。

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