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【福澤諭吉をめぐる人々】
小山完吾

2019/01/28

慶應義塾への批判

小山は、塾内で自治制委員会という学生自治の組織に属していた。この組織では「三田評論」という機関誌を発行していた。現在の「三田評論」は「慶應義塾学報」の流れを汲むものであり、名前を改める際に過去に存在したこの学生機関誌の名を採用し現在に至る。当時の機関誌は、板倉卓造、沢木四方吉、高橋誠一郎等の論客を擁し、塾の行政を批判的、抗争的に記載することの多い雑誌であった。その中で小山も塾の改革を訴え、明治維新の諸豪が豹変して何々爵と称して威儀を語っているように、塾も今やそのような状態に陥り、排外的精神が醸成されているのではないかと痛烈に批判をしている。福澤と身近に接していた人物が塾当局へ批判をしているという点で興味深い。福澤の思想をよく知るからこそ、塾の現状を憂い、警鐘を鳴らしているともとれる。一方で、強烈な批判を繰り広げる機関誌の発行を許容する当時の塾内の懐の深さ、自由闊達な気風も注目に値する。

小山は、大正15年、予科会結成の来賓挨拶にて卒業生としても当局を批判している。教育は本来美術家の作品のように丹念で親切な努力の下に作り上げるべきにも関わらず、当時の800人規模から1万人を超えて大量生産型の学校となってしまったことを憂いている。当局は、各学生に親切な眼が行き届くように資力と努力を尽くす。それでも至らない部分は学生たちが親睦の間で智徳を鍛錬し切磋琢磨の努力で補ってほしいと願っている。綿々と続く自治的精神を誇りながら、福澤以来の親切こそが塾の〝有難さ〟であり塾を盛大にした本質であると訴えた。

福澤三大事業

福澤の没した明治34年に法律科を卒業した小山は、時事新報へ入社する。外信部記者としてイギリスへ行き、記事を執筆する傍らロンドン大学に留学し経済学を学ぶ。帰国後はその経験を活かし経済部記者として活躍する。文部省通俗教育調査委員を経て長野の衆議院議員となり、時事新報を離れるが、大正8年には明治生命常務取締役を務め、大正15年に時事新報の社長に就任した。福澤の次男捨次郎の跡を継いで社長となった小山は、大阪時事新報の経営難や、関東大震災による社屋の全焼による経営悪化の改善に尽力した。しかし、施設、設備復旧に手間取られ、販売店への手当てまで手が回らず、結果は思わしくなく就任1年で退任した。

慶應義塾の塾員としては、卒業の翌年に評議員に選ばれ、三田会発会の発起人の1人にもなっている。専門部新設や規約改正案作成、大学予科の移転候補地詮索などにも委員として寄与した。また、戦中には臨時非常措置委員を務め、勤労動員された塾生の健康への留意を塾長に強く求める他、戦後は理事に選ばれるなど塾の窮境も支えた。

同じように交詢社においても常議員の副長や理事を務め、建築促進委員として現在の銀座の本社移転にも立ちあうなど交詢社の発展に努めた。

時事新報、慶應義塾、交詢社と福澤が残した三大事業に真摯に向き合ったと言えよう。他にも東京の監査、鎌倉高等女学校の理事、産業復興営団設立委員などを務め、戦後には政友倶楽部所属で貴族院議員に勅撰される。同時代の多くの塾員と同じく様々な場面で尊重される人であったことが窺える。

ちなみに、当時、交詢社の影響力は大きく、国民大衆の支持を得た野党が桂内閣を総辞職に追い込んだ第1次憲政擁護運動(大正政変)のきっかけを作ったのもこの交詢社の談話室が発端であった。門野幾之進、鎌田栄吉などの主要メンバーに加え犬養毅、尾崎行雄、福澤桃介、そして立憲政友会から衆議員に当選したばかりの小山をはじめ、塾出身の実業界、政界のいわゆる三田派の人物たちは、交詢社内の談話室で閥族打破の議論を白熱させた。その後この交詢社有志たちが憲政擁護会と名乗り、築地精養軒に本部を移し活動を続ける。この熱い思いと行動をきっかけに民衆も立ちあがり、この桂内閣の総辞職という結果を得ている。運動の資金も、主に福澤桃介を中心に慶應義塾出身の実業家たちが負担していた。このように、慶應義塾の出身者、いわゆる三田派の交詢社における交友は政界に大きな影響を与えていた。

左から3人目から小山、西園寺公望、1人おいて近衛文麿(大正8年シンガポールにて)

リベラリストとしての生涯

実業界、政界、交詢社などを通じ幅広く交友関係を持つ小山は、池田成彬、牧野伸顕、齊藤實、近衛文麿、木戸幸一、松永安左エ門などの日本の巨頭ともいうべき人々に頼りにされた。特に西園寺公望には、大正7年パリで行われた第1次世界大戦の講和会議の随員(小山は、西園寺より論功行賞などに入れる公式随員と、非公式とどちらが良いかと問われると、公式は煩わしいと非公式を選択している。勲章を望まなかった福澤の門下生らしい様子が垣間見える)として参加して以降、特別に可愛がられ、晩年まで相談役や情報収集の耳としての役割を果たした。

小泉信三の言葉を借りれば、政界・財界の中で「誰に頼まれた訳でもなく、何の個人的利益があるというのでもないのに、ただ国事を思う心から進んで要路の人々の間に勧説し、仲介し、斡旋をした一憂国者」であった。その様子は、『小山完吾日記』に克明に記されている。小泉は、小山が重んじられた理由を第1に国事を思う熱心さ、第2に慶應義塾に学び、卒業後、時事新報記者となって英国に留学して得た古典的ともいえるほど純粋な議会主義と自由主義、第3に正邪の判断に厳しさと無邪気な愛嬌を両立させた個人的魅力であると分析している。福澤の身近で晩年の8年間を慶應義塾で過ごした小山完吾は、篠原亀三郎の言葉を借りれば昭和30年7月に没するまで、「真のデモクラシィを身につけ、正しいリベラリストとして生涯を貫き日本を憂い奔走し続けた人物であった。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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