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【福澤諭吉をめぐる人々】
小山完吾

2019/01/28

塾生時代の小山完吾
  • 小山 太輝(こやま たいき)

    慶應義塾幼稚舎教諭

小山完吾が慶應義塾に通ったのは、明治26(1893)年から同34年。福澤諭吉がこの世を去る前の最後の8年間である。小山は、散歩党発足のきっかけを作った人物でもあり、現役塾生として最も身近で晩年の福澤に接した1人である。卒業後も慶應義塾の評議員を務める他、交詢社、時事新報とも深い関わりを持ち、福澤一太郎の長女遊喜(ゆき)と婚姻をするなど、言わば福澤の遺産を大切に守りながら、財界・政界においてもその存在感を示した。小山の体験とその述懐には、福澤の人物、そして当時の自由平等な慶應義塾の気風や文化、社会での役割を知る鍵がある。

自由平等の塾風

小山完吾は、明治8年、長野県北佐久郡小諸町にて、山謙酒造店を営む小山謙吾の五男として生まれた。小山は小諸小学校、北佐久高等小学校小諸分教場を卒業し上京。明治26年に兄の禎三も通った慶應義塾に入った。地方から上京した小山は当時を振り返り、「天下に有名なる学校」に入学したとなれば、その中にはさぞ「立派な先生」があり、「如何に叱責される様な事があっても之に絶対服従」し、同時に「師弟の差別も明らか」であり、「上下の規律も厳格」であると想像していた。

しかし、実際には「内外に自由平等の空気が漲って」おり「社中一般に親睦友愛の空気が充ち」、あたかも「一大家族の感があった」という。当時先生と呼ばれるものは福澤、小幡篤次郎、門野幾之進くらいなもので、その門野にすら「鼻息が荒くなり、甚だしいもの」になると、「門野君」という塾生もいた。これらは、一見、秩序を無視した「校規紊乱(びんらん)」とでもいいたいような風であるが、「根底には師弟の間に親愛の情があった」故の光景であったという。当時の福澤は、「厳めしいご師匠」や、「薫陶を授ける先生」でもなく、多数の孫の世話をする慈愛に満ちたおじいさんのような存在であったという。よく塾生を食事に誘い、塾出身の大会社の社長や銀行の頭取などを同席させた。そこでも上下の区別なく親疎の隔てもない一大家族の感があったと回想している。

散歩党

小山が福澤と初めて接したのは、明治28年頃。巷で騒がれる「酒税増徴」の噂に対し、実家の父親から酒造家がどう対処すべきか福澤へ質問をしてきてほしいという言いつけがきっかけであった。福澤は、小山の質問に対し懇切丁寧に答え、なおかつ小山にその質疑の内容を文章でまとめさせると、後日その文を時事新報に掲載している。田舎から来た一書生にとって、自分の文が天下の時事新報に載る経験は格別であったであろう。

兄と親戚が慶應義塾に通っていたことも相重なり、初対面から福澤の親切を受けた小山だが、この距離がさらに縮まったのは毎朝の散歩であった。福澤は、還暦の頃から健康のために毎朝散歩を試みており、ある日の三田演説会において運動の重要性を説き、塾生へ散歩の参加者を募った。多くの若い塾生がその演説を聞き流している中、小山は翌日、友人の本多一太郎と2人で散歩を試みた。すると、道中福澤に出くわし「私も毎朝散歩をしているが、これから一緒にやらないか」との誘いを受けたのが始まりであった。

次第にそのことが評判となり、後には電力の鬼として知られる松永安左エ門や電力王と呼ばれ後に福澤の次女の房と結婚する福澤桃介なども加わり、これらのメンバーが散歩党と呼ばれるようになる。この散歩は、一種の教育の時間にもなっており、福澤は、道中、菓子パンや煎餅などを与えながら、真面目な話や世間話を交え、一人ひとりに気を配り絶えず質問をした。自分の知らない話を聞けば、どんな小さなことでも「えらいことを知っているね」と感心して聞いてくれたという。

また、その場で語られた時事の話題が、数日後には時事新報の社説になることもあったようで、福澤の思想や考えを直に触れ学ぶ機会となっていた。福澤は寝坊した者がいれば自ら起こしに出向き、親が亡くなれば死を悼む手紙を送り、体調がすぐれないとみれば医者を紹介し、暮れには家に招き餅をふるまって年越しをするなど、書生たちへ深い愛を注いだ。中でも小山は、「すこぶる怜悧にしてたしかなり」と評価され、信州生まれながら善光寺に行ったことがないと話しただけで、福澤の企画で上信越旅行へ連れていってもらうなど、同年輩の同窓生の中で「最も多く親炙申上ぐることの機会を得」ていた1人であった。

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