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【福澤諭吉をめぐる人々】
美澤 進

2018/12/13

スマイルズを講ず

美澤を校長に得た横浜商法学校は、明治15年3月20日開校した。この時の教員は美澤も含めて5人、入学した生徒はわずかに4人であった。卒業までに5年を要する学校で商業の専門教育を受けようという若者はまだ多くはなかった。そこで急遽夜学で修業年数2年の速成科が開設され、14人の生徒が入学した。

ちなみに「Y校」のYの徽章を制定したのは明治24、5年頃、これも美澤のアイデアであった。当時、横浜には小学校後に進む上級の学校は他に存在しなかったので、次第に商家の子弟だけでなく小学校を終えてさらに学びたい者が進む、まさに横浜を代表する学校となっていった。

そのカリキュラムは英語、算術などにも特色があるが、1番は、「修身衛生両全」の教育にあろう。美澤は、「学術」と「修身」と「衛生」のバランスのとれた教育をカリキュラムに明示し、さらにそれぞれに「実践主義」を大切にしていた。スポーツも重視していたが、衛生学の基礎知識も講じた上での健康第一主義で、運動偏重でもないのはいかにも慶應義塾流である。

美澤による授業の思い出に多く出てくるのはスマイルズ著の『セルフヘルプ』の授業である。美澤はこれを原書で朗読した上でその内容を論じた。明治初年のベストセラー、中村正直訳の『西国立志編』の原著書である。

その思い出を書き遺した1人に小島久太がいる。小島は、後に横浜正金銀行に勤める傍ら、日本アルプスを中心に精力的に登山を続け、多くの紀行文を遺した小島烏水(うすい)である。

小島は、「生い立ちの記─Y校在学時代から『日本山水論』を出すまで─」において次のように回想した。

「美澤先生はスマイルズの自助論(Self-Help)を講ぜられた。(略)美澤の同書の講述は、さながら過去の時代を、明治にひきもどし、西洋人を日本人として、眼前に彷彿させているようで、日本人よ自立せよ、創造せよと、先生を通じて、私たちは刺激を受けていた。これこそ、私たちにとっては、当代の新道徳経であった。正直のところ、私は、後に多くの碩学から深遠なる学理を聴講したことはあっても、美澤先生の「自助論」の講義のごとく、若々しい生命を授けられたことはなかった。今でも頭に残っている名講義だ。」

また、卒業生や教員の回想を見ていると、美澤の教えから福澤の精神を感じ取っている人が多いことに気付かされる。小島烏水もこう語っている。

「時代には時代の理想がある。横浜商法学校が幼稚の学校であったにしても、時代の理想からは、自然の影響を受ける。統率者なる美澤先生も、叙情詩を持つ。それはなんであったか、横浜の貿易は生糸を初めすべて外国商館によらなければ、輸出が出来なかった(略)。日本人自身の直輸出、これが望ましい。(略)さらに大きな問題として、東洋の諸国が、西洋の強国に、攻略せられ、奴隷にせられ、わが祖国の独立とても、心配された時代でもあった。日本は伸びなければならない。頭上の重圧力を、はね返さなければならない。独立自尊は福沢諭吉先生の標語であって、その使徒の忠実なる第一人、かつ古武士の気象をたぶんに持ち合わせた美澤先生の、身に代えても抱持する主張であった。」

Y校同窓会発行『美澤先生』表紙より。美澤は、山高帽子、フロックコートにこうもり傘のスタイルを一年中通した。教え子達はその姿を懐かしんだ。

「誠実」の人

大正12年9月1日、関東大震災にて、校舎の大部分が壊滅した。美澤は連日、校庭のテントに夜遅くまで陣取り、横浜の復興は1日も早い授業の再開からと指揮をとった。「横浜は安政のその昔微々たる一漁村に過ぎなかったが、それを人間の力で今日までの繁栄に導いたのである。焦土と化したこの横浜を、更に再び復興させるのは人間の力である」と教職員と生徒を激励した。しかし、全横浜中で最初の再開を見届けることなく、9月16日、脳溢血で没した。

後年、美澤の33回忌に、同校の生徒を前に講演したのは小泉信三である。美澤の妻は信三の父信吉(のぶきち)の姉の娘であった、そしてその子義雄は同い年。父を早くに失った信三は、少年時代、夏は美澤の家で過ごすことが多かった。信三の結婚の時の媒酌人も美澤夫妻である。

小泉は、「天才ではなく極めて平凡な人」で、しかも晩学であった美澤が教え子と人格的結びつきを持ち、多くの感化を与えた理由は「先生の「誠実」というただその字にあった」と語った。更に、「練習は不可能を可能にする」のは肉体的技術だけではなく、精神的能力、徳性も高められるとして、Y校生に語りかけた。

「平凡な人も唯一つ「誠実」の心を持って「努力」すれば立派な人間になれる。能力も品性も、これを高めることができるのだ。美澤先生を視よ。これは私どもにとり非常な激励であります」。

小泉にとっても、美澤は懐かしい忘れ得ぬ人であった。「後年、やはり私自身も学生を指導する身となって、こんな場合、美澤先生ならどうするだろうと、心に決したことが幾度かあった」と述懐した。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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