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【福澤諭吉をめぐる人々】
美澤 進

2018/12/13

美澤 進(『福澤諭吉と神奈川』展図録より)
  • 白井 敦子(しらい あつこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

「Y校」といえば、135年以上の歴史を誇る「横浜市立横浜商業高等学校」のことである。この源となるのが、明治15(1882)年に設立された「横浜商法学校」である。その初代校長が美澤進で、関東大震災後に死去するまで実に41年もの間、校長としてその任務を全うした。「全横浜の先生たるの観」(小泉信三)があった美澤の人間性や教育観は、どこかしら福澤に通ずるものがある。

横浜開港の歴史と横浜商法学校

美澤進を語るにあたり、まずは横浜開港の歴史に触れておく。

嘉永6(1853)年、浦賀にペリーが来航し、翌年には日米和親条約、さらに安政5(1858)年には、日米修好通商条約が締結された。そして翌6年に横浜は開港した。以来、横浜には外国人居留地もでき、広く外国に門戸を開くことになった。そして、生糸、塗物、漆器、緑茶などの売込商が集まり、貿易の舞台となった。

しかし当時の貿易は、「商館貿易」あるいは「居留地貿易」とでも言うべきものであった。つまり、日本人の商人は、直接的な貿易に関与するのではなく、居留地の外国人商館におもむいて売り込む、あるいは買い取るという方法にとどまっていた。言葉がわからないだけでなく、商品に関する情報も不足していたし、外国商人との交易の知識も経験もない状態であった。

外国商館に有利な貿易慣行を改めるには、英語ができることだけでなく、商業についての十分な知識を持ち、外国人と対等の立場で国際的な商取引を行うことができる人材を育てることが急務となっていたのである。

横浜貿易商組合のメンバーが発起人となり、国内6校目となる商法学校設立の企画が出され、明治14年12月同組合にて、学校設立の決議がなされた。そして発起人から有力商人である7名(小川光景、木村利右衛門、戸塚千太郎、朝田又七、茂木惣兵衛、馬越恭平、来栖壮兵衛)の代表者が創立委員となって、設立の準備が進められた。

美澤が校長に決まった経緯を『Y校80周年記念誌』は次のように記している。

「15年2月7日創立委員の1人馬越恭平氏が三田同門の早矢仕有的氏(丸善創業者─横浜商法学校の命名はこの人による)に「美澤進君に来て貰いたい」と話したところ同氏は早速慶應義塾の小幡篤次郎氏に伝えた。小幡氏よりこれを聞いた福澤諭吉先生は言下に「それはよい。美澤は聖の聖なるものだ」と答え、ここに美澤進校長就任のことが決定した」

初代校長となった美澤進は、当時満32歳。以来、41年間にわたり校長を務め、Y校のために全人生を注ぐことになった。

美澤進と慶應義塾

美澤進は、嘉永2(1849)年11月10日に、父三村繁八郎、母於美津の6人兄弟の長男として備中(岡山県)の川上郡手荘村字三沢の豪家に誕生した。生家は代々酒を造り、庄屋を務め成羽藩藩外の豪士として苗字帯刀を許された家柄であった。しかし、父が事業に失敗し家は没落、幼児期とは異なる困難な少年時代を送る中で、美澤は学問で家の再興を図ろうと考えるようになったという。

少年時代の美澤は病弱であったが向学心は人一倍で、満12歳の時に、本格的に儒学を学ぶために、興譲館へ入学し阪谷朗盧より漢学を学んだ。後に、阪谷は美澤のことを、自分の弱点を心得ており他人の倍の努力をする人物であると評している。明治5(1872)年に上京、箕作秋坪の三叉学舍で西洋の学問と出会い、初めて英語の本を手にした。漢学を学んでいた美澤にとって、初めは横文字の英語になかなか親しめなかったという。しかし、ここでも人の何倍もの努力で、英語の実力を上げることができた。その反面、自分自身の健康を顧みずに無理な勉学に励んだ結果、体調を崩してしまう。医師からの助言により、健康であることの大切さに気づき、このことが後、校長となった美澤の教育観にも繋がることとなる。その後の美澤の生活は無駄を省きより規則正しく、学問と健康の両立に励む日々となった。

明治8年1月に慶應義塾に入学し、福澤と出会い、鎌田栄吉、犬養毅らと知り合うことになった。1級上の鎌田とは朝の運動場で知り合った。2人共朝食前に運動場で運動する習慣があったからである。毎朝、運動場で満25歳の美澤は18歳の鎌田から、衛生論から経済学、倫理学まで読んだ本の話を聞いては、議論を交わすうちに親しくなったという。犬養毅は同じ備中の出身でしかも親類関係にあったが、美澤の郷里は僻遠の地であったため、翌9年に犬養が義塾に入ってから知り合ったという。

明治11年、慶應義塾を卒業した美澤は、福澤の推薦で、設立されたばかりの三菱商業学校の英語教師となった。

ちなみに、福澤諭吉が『帳合之法』を出版し、西洋簿記を日本に導入したことは有名であるが、商業教育の展開にも尽力していた。8年開設の商法講習所(現一橋大学)には設立趣意書を記した。また、11年開設の三菱商業学校、神戸商業講習所(現兵庫県立商業高等学校)、13年開設の大阪商業講習所(現大阪市立大学)、岡山商法講習所などいずれも福澤が支援し、義塾の出身者を教員として派遣している。

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