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【福澤諭吉をめぐる人々】
日原昌造

2018/08/27

隠居生活

日原は隠居を決め、横浜正金銀行を退職し、故郷の長府に戻った。畑仕事や釣り、狩猟、養鶏などの日々を送りつつも、新しい知識の吸収を欠かすことなく、『時事新報』への寄稿も続けた。27年、福澤は墓参のため息子2人を連れて九州旅行に出かけた際、途中で合流した日原と耶馬渓や下関を一緒に歩き、語り合った。同年冬、小泉信吉が腹膜炎を患い48歳で亡くなった。福澤は故郷に帰った日原にしばしば小泉の様子を伝え、その病状についても小泉が亡くなる2日前にも手紙で知らせている。日原は上京のたびに小泉宅を必ず訪ね墓参りをしたという。3人の友情の深さがわかる。

隠居したとはいえ、信頼されていた日原は事あるごとに福澤や義塾関係者から上京を促された。32年、『修身要領』作成の際には福澤から招かれ、上京して小幡らとともに知恵を出し合った。日原は、周囲のとりとめのない会話に対して、「日本人の道徳の基礎を独立自尊においてはどうか」と発言し、一同はそれに同意した。その後、基本原則を決めたからと帰りたがる日原に対して、周囲は綱領を起草してほしいと頼み込み、福澤に至っては泣きながら引き止めたという。

結局、草稿を執筆し、『時事新報』で『修身要領』解説記事を担当することになる。翌年、福澤は皇室から5万円の恩賜金を受け、そのまま慶應義塾の基本金に寄付した。これを日原は『時事新報』紙上において、塾員全体の気持ちとして、皇室の恩徳と福澤の高義は明治の美談として後世に語り継ぐべきと讃えた。ところが、冬になると、突然福澤が慶應義塾の廃塾を言い出したため、困った小幡らは日原に福澤の説得を依頼し、翻意させるという一幕もあった。

福澤の精神をつぐもの

34年2月、福澤が亡くなると、日原は上京し、葬儀の相談に加わった。義塾の学生からは屈強で体の大きな者30名を選抜して先生の柩を担いたいとの申し出が葬儀委員になされた。委員は師弟の情誼はわかるが無経験の素人に担わせるわけにはいかないと断った。しかし、学生側は柩と同じ大きさ・重さの物を使って予習をしておくからと再度願い出たため、委員は学生に徳望のある日原に説得を依頼した。日原は学生の熱意に深く感動し、万全の工夫をして希望を叶えたらよいとの意見を述べて報告した。協議の結果、車に乗せて学生に綱を引かせる工夫も考えられるが、時日が切迫して間に合わないという理由により、学生に断念させることに決した。

そこで、日原は「君たちが先生の柩を担いたいというのはわかるが、君たちの肩には柩以上に担うべき重いものがある。それは先生の遺業である慶應義塾そのものを担うことである。将来義塾の維持は是非諸君の双肩に担ってもらわねばならない」と演説し、学生を納得させた(『福澤諭吉伝』4)。困りごとが起きると日原に相談していた義塾幹部と日原の言葉なら従う学生の様子から、引退しても義塾の長老的存在であった日原の存在の重みが伝わってくる。まさに「福澤の精神をつぐものは日原昌造」であった。

36年11月、日原は胃弱により入院し、治療を受け療養生活に入るが、37(1904)年1月26日、50歳で世を去った。

日原は慶應で学んだ門下生ではなく、小泉信吉の薫陶を受けたことをきっかけとして福澤に見込まれた人物であった。義塾の教師として短い期間教鞭を執った以外は常に義塾の外にありながら、福澤及び慶應義塾の相談役として重きをなした。肩書きとして教師(慶應その他)、銀行員(横浜正金銀行)、文筆家(『時事新報』への寄稿)が浮かぶが、その生涯を貫く呼称を考えるとすれば、最先端の知識を広く世間に啓蒙する「明治知識人」と呼ぶのがふさわしいのかもしれない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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